恵光寺 和尚の日記

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■2011年7月2日

西山三派中央教学講習会

浄土宗には「浄土宗」と「浄土宗西山」という二つの大きな流れがあります。「浄土宗」は知恩院さんを総本山とするとても大きな宗派です。それに対し、「浄土宗西山」は一つではなく、「西山浄土宗」「浄土宗西山深草派」「浄土宗西山禅林寺派」の三派でできています。ときおり、この三派が合同で事業を行っていますが、タイトルの「西山三派中央教学講習会」も年に一度、輪番で行われる全国中央講習会です。今年も7月2日から4日までの3日間、「西山浄土宗」の本山・長岡京市粟生の光明寺で行われました。

 

 

 

その講習会に小生も講師として出講しました。法然上人800回大遠忌が終わってから、われわれはどう念仏を広げていくか、という内容でした。生きているいまこそが「辛い世の中」、つまり「末法」である、という見方があってこそ、宗教は求められるわけですから、現代の情況と私どもの性(さが)、という観点からお話をさせて戴きました。

【写真右上】講演中の恵光寺住職
【写真右下】講習会の様子 (7月2日 京都西山短期大学にて)

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■2011年7月5日

市原野小学校でお話

市原野小学校では子どもたちが市原野の伝統文化を受け継ぎ,次代に伝えていくことを願って地域の歴史を学ぶ時間をつくっています。

小生も毎年何らかの格好で子どもたちといっしょに市原野のことを考えるためにお話をしています。

ことしは3年生、6年生にそれぞれお話をしました。

古来、京の都は東山,西山,北山の三山に囲まれていて、市原野が入り口である北山は京の都に材木や水、燃料の薪炭を送る山だったこと、都を守るために北山が位置づけられていたこと、などのお話をし、市原野はその北山の入り口にある、ということを認識してもらいました。

そして、労働が人と人との絆をつくり、地元の文化を創り育ててきた、ということを紹介しました。その例として、京都所司代の板倉重矩(いたくらしげのり)が静原口の鬼谷から灌漑用水(板倉用水路5Km)を引いた後、村人は報恩の板倉忌をこの300年以上も、毎年行っていること、生活、人の誕生・死が、みんなの助け合いのもとで,ハモハ踊りや鉄扇踊り,田虫送り、「い」の字の送り火、として行事化されたことなどをお話ししました。

【写真右上】地元の小学校で子どもたちに話をする恵光寺住職(7月5日 市原野小学校で)

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■2011年7月5日

京都みすヾ会発足記念講演会

大震災以降、民間テレビで流されたAC提供の宣伝に「こだまでしょうか」という詩があるのを憶えておられるでしょう。

「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと 「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。

そうして、あとで さみしくなって、 「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。

 

こだまでしょうか、 いいえ、誰でも。

 

これは山口生まれの女性童謡詩人、金子みすゞさん(1903~1930)の詩です。みすヾさんは幻の童謡詩人といわれましたが、このみすヾさんを今の世に出した人が矢崎節夫さん(現金子みすヾ記念館館長)という詩人です。

童謡詩人・金子みすヾさんは、仏さまの眼でいのちを見つめ、それをやさしいことばをつかってみすヾの世界をつくっています。

今回、京都のお坊さん5人が中心となって(小生もそのうちの1人)「京都みすヾ会」を立ち上げ、その記念の講演会を100人のご参加の下、中京区の休務寺さんで行いました。

当日は、みすヾさんの弱者へのやさしいまなざし、おたがいを認め合う心、そのとうとさを矢崎節夫さんが心に染みる話し方で紹介してくださいました。また当日はみすヾさんのお嬢さんで上村ふさえさんも同行され、花を添えていただきました。

本会が、私たちの新たな生き方を創りだしていく、そんな会の活動になりますことを願っています。このホームページの読者で参加ご希望の方がございましたら恵光寺までご連絡下さい。

【写真】 矢崎節夫さん(金子みすヾ館館長)の講演を聴く「京都みすヾ会」の方々
【写真】 講演をされる矢崎節夫さん
【写真】 講演の後、矢崎節夫さんと小生

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■2011年7月16日

さんがいちはらの納涼講座 岸野亮哉さん

今年のさんがいちはらの主催の「納涼講座」は7月16日(土) 朝7時より行われました。

最初に勤行。震災で亡くなられた方々のご回向をし、避難・被災を余儀なくされている方々の安穏を祈念いたしました。

そして講演。今回の講演者は震災直後から陸前高田市を中心に10回、被災地入りしているカメラマン僧侶・岸野亮哉さん。4ヶ月経った被災地の人々の様子を報告してもらい、「大震災・復興とは何か」をいっしょに考えました。

震災直後、岩手県のお寺をピックアップし、救援物資を積んで震災8日後の3月19日、市職員300人中100人が亡くなった、という陸前高田市に到着。夜に何とか、臨済宗妙心寺派の慈恩寺という避難所になっているお寺に到着した。救援物資の中でとくにガソリン、発電機が喜ばれた。
私の場合、3月から4月初旬は報道目的から物質援助に、4月以降はほかの方々を被災地に案内する、ということが多くなった。
みんな身内を亡くしていて、辛い思いをしておられる。避難所で、発見時の写真を食い入るようにめくっている人を見ると、復興はまだまだだ、と思う。また、避難所にいる間は不自由な生活を強いられるが、仮設住宅に移ると孤立化など、新たな課題が襲ってくる。
もうひとつ。僧侶である私がみなさまにお伝えしなければならない話に、遺体安置所の様子、というのがある。陸前高田市のある中学校が遺体安置所になっていた。そこでは305遺体が並んでいて圧倒された。発見場所、時刻、性別、傷痕などなくなった方の情報が棺においてある。それを人びとはひとつひとつ見て回る。ひとつの遺体にはその人の人生のドラマがあるはずだ。それなのにだれも尋ねる人がいない遺体がある。家族もなくなったのだろうか、と思う。それとは別になかなかわからなかった人の中に、劇的に本人確認ができる場合がある。私もそんなケースに深く関わったことがある。私が北海道の大学で震災の話をしたとき、この陸前高田市から避難している一女学生に出遭った。その後、その女性の友人が遺体で発見され、陸前高田の中学校の遺体安置所にいたことがわかった。人のつながりの不思議、見えないところで人のいのちはつながっているのだ、と思わずにはいられない出来事が現地に行くとあるのだ。人びとはそういう中を生きているのだ、と思う。私のように直接的な結縁、仲間がいないものだから、こういうところに足を踏み入れることができるのかもしれない。ふるさとを知り、仲間のいるそのふるさとの変貌ぶりを知れば、足を踏み入れることに躊躇する人はいっぱいいるだろう、とも思う。
この震災で、われわれにとっていちばん怖いことは《無関心》ということである。離れていてもここにいながらできる支援がある、と思ってほしい。

話が事実にもとづいたものだけに、被災した人どうしのつながり、という人間としてのいちばん大事な観点を軸に話をしてくださったのでとても心に迫るものがありました。私と同じ日常を暮らしてきた人が、東日本で苦しんでいるのだ、と思うだけで、わたしどもの生活と心のベクトルが変わるのではないか、と思いました。
講演が終わってから、いつものように浄斉として朝粥が振る舞われました。

【写真右上】 講演をする専修寺副住職・岸野亮哉さん(7月16日朝。恵光寺本堂で)
【写真右下】 聴衆のみなさん
【写真上】 朝がゆ接待の風景

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■2011年7月18日

なでしこジャパン ワールドカップ優勝!

ドイツ・フランクフルトで7月17日(日本時間18日未明)に行われた女子ワールドカップ決勝で、日本のなでしこジャパンはアメリカを破り、初のワールドカップ優勝を達成しました。
試合は手に汗にぎる接戦で延長後半1-2で負けていながら、澤穂希選手の居合い抜きのような目にも留まらない芸術的ゴールで同点にし、勝利に貢献しました。澤選手のこのゴールは彼女の人柄と相俟って後世ずうっと語り継がれることでしょう。
彼女たちの「あきらめない」ということばは世界に報道されましたが、震災を経験したわれわれに次の新たなページが待っていてくれることを示してくれています。

【写真】 延長戦終了前に芸術的ゴールで同点にした澤穂希選手のその瞬間

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■2011年7月20日

地元で子育てネット会議の研修会

市原野の街には「子育て支援ネット会議」というのがあり、毎年2回、子育てについて研修会や講演会を行っています。今の子どもの環境は虐待、ケータイ、ゲーム、などに代表されるように大人の生き方、地域社会に大きく左右されます。
今回は「なにが子どもの課題」というテーマでワークショップを行いました。子どもを健全に育てるのは街づくりが基本。町内会や向こう三軒両隣のつきあいが、子どもたちを見守る生活につながる、という話になりました。
このワークショップのコーディネートは小生が行いました。みんなが住む街、もっとつきあいの深い、目の行き届く街になりますように。

【写真】 市原野の「子育て支援ネット会議」ワークショップの様子。板書をしながらコーディネーターをつとめるのは恵光寺住職

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■2011年7月23日

恵光寺の近くで火事がありました

午後1時30分、恵光寺の近くの山林にある化学製品製造工場で火事がありました。当日は土曜、工場は無人でけが人はありませんでした。また、化学薬品貯蔵庫は無事だったそうで、胸をなで下ろしました。
山林での火事で、細い山道しかなく、水を400メートル離れた鞍馬街道からホースを何回も継いでポンプアップしながら送水しましたし、周りが山林ですから類焼をふせぐため、酷暑の中、消防士の方々が大奮闘してくださり鎮火しました。しかし消防士5人が消火活動中スズメバチに刺されて病院に搬送されるなど、アクシデントがありました。そのため、救急車はしょっちゅう来るし、もとからの消防車が20台近く鞍馬街道に並び、一時、鞍馬街道は騒然となりました。
多くの方からお見舞の電話を戴きましたので状況の報告をさせて戴きます。合掌。

【写真】 燃えさかる工場の建物

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■2011年7月23日

夏やすみ始まる

公立の小学校は7月22日が前期の最終日。翌23日から夏休み休暇に入りました。各町内ではラジオ体操が行われていますが、この写真は恵光寺の南駐車場を利用して行っている町内のラジオ体操の風景です。

【写真】 ラジオ体操をする町内のこどもたち。恵光寺和尚も参加しています。右下の2人は和尚の孫です。

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■2011年8月6日

午前8時 ヒロシマ平和の鐘つき

毎年8月6日に行われます「ヒロシマ・平和の鐘」の集いが今年も恵光寺で行われました。主催は「さんが・いちはらの」。

第1部は恵光寺鐘楼で平和の鐘つき。午前8時に「さんが・いちはらの」の寺院の和尚さんが鐘楼に集まり読経。広島に原爆が投下された8時15分に鐘を鳴らし、1分間の黙とう。そのあと補陀落寺の和尚さんの天台声明が夏の空に、あるときはさびしく、あるときはやさしく蝉しぐれに相俟って響き渡るなか、30人の参会者が順番に鐘つきをしました。
第2部は会場を恵光寺本堂に移し、原爆犠牲者の追悼法要。法要では東日本大震災の犠牲の方々の初盆回向と非難・日債の方々の安穏を祈念しました。そのあと、恵光寺和尚の講話、久保孝夫さんの宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の朗読がありました。平和を願う気持ちは東日本の被災のみなさまもいっしょ、という思いが強く感じられました。

【写真】 恵光寺鐘楼で8時15分に合わせて鐘つき
【写真】 本堂での集い ヴァイオリンをバックに久保孝夫さんが宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を朗読

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■2011年8月16日

市原の新精霊(あらじょらい)さんの初盆供養

8月16日夜、市原町ではこの1年に亡くなられた方の「新精霊(あらじょらい)」供養をします。今年は会場が恵光寺で、多くの方々が数珠を繰って新しく亡くなられた方を偲んで初盆供養をしました。恵光寺の芳子坊守も初盆でした。

そのあと、会場を川島織物の広場に移して念仏踊り「ハモハ踊り」が奉納されました。新盆の方々の法名を水塔婆に書き、踊り手がそれを腰に差して踊ります。踊り手はもっている団扇(うちわ)で新盆の霊を天に返す仕草をしながら「ハ-モ-ハ-」と唱えておどります。「ハモハ」は南無阿弥陀仏が訛ったもの、と考えられています。国の記録すべき無形文化財に指定されています。

【写真右上】 恵光寺新精霊(あらじょらい)さんの初盆供養。みんなで大数珠を繰ります
【写真上】 川島織物の広場に移して念仏踊り「ハモハ踊り」

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■2011年8月20日~21日

各町内で地蔵盆

各町内で地蔵盆。恵光寺の和尚は百万辺数珠を大、中,小と用意し紙芝居を持って6ヶ所の町内を回りました。
子どもの多い町内もあれば、昔子どもだった人が中心、というところもありました。
どこも炎天下、テントでの夏のイベントですが、ゲームやお話に一生懸命になって、暑さもしばらく忘れました。法話はいのちの不思議、大切さ、を震災と併せてお話しました。かき氷を食べながら「いのち」を考える、ってすてきな経験ですよ。きっと。

【写真右】 テントに集まってみんな行儀よくお地蔵様のお参り。高学年の子供が恵光寺和尚の後ろで木魚と鉦をたたいています
【写真上】 みんなで百万辺の大数珠繰り

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■2011年8月23日

恵光寺の地蔵盆

恵光寺の毎年の地蔵盆お勤め。今までお寺の芳子がお地蔵様用の料理と参会者のお弁当を作っていましたが、今年は芳子がいませんので、その分、婦人部の世話人さんがお弁当を作ってくださいました。

石仏さんでは柿の葉っぱにおナス、カボチャ、インゲン豆の煮つけをのせてお供えしてお参り。
メインの地蔵堂での数珠繰りは夏の宵に幻想的でした。

 

【写真右上】 地蔵堂での数珠繰りの様子
【写真右下】 かわいい水かけ石地蔵さんが横でお念仏を聞いておられました
【写真上】 お地蔵さんのお参りのご婦人方

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■2011年8月お盆

芳子坊守にアメリカ芙蓉

芳子坊守の初盆に、と神戸の阿弥陀寺ご住職・澤木亮道様から「アメリカ芙蓉」が送られてきました。そして白い花を咲かせました。

澤木ご住職は、中西玄禮ご法主が「芳子さんを花に譬えると白芙蓉か、と思う」とおっしゃったことから、あちこちで白い芙蓉を探して今般の贈り物にしてくださいました。ありがたいことです。

【写真】 玄関で白い花を咲かせるアメリカ芙蓉。芳子坊守が来客に挨拶しているかのようです

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■2011年9月4日

粟生の光明寺本山で講習会

西山浄土宗の中部教学講習会が総本山・粟生の光明寺境内にある京都西山短期大学で行われ出講しました。近畿圏の住職、弟子方が毎年研修する講習会で、小生は「布教」という科目を担当しました。お坊さんが人々に法を説くのに、自分自身が生きる悩みに真剣に向かい合っているかが問われている、と自分に言い聞かせながらお話ししました。

【写真】 西山浄土宗の総本山・光明寺(京都府長岡京市粟生)境内にある京都西山短期大学(大学のホームページより)

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■2011年9月5日

永観堂本山での宗学院修了

わが宗派には僧侶を養成する教育機関として「宗学院(しゅうがくいん)」というのがあります。毎年、お盆明けから9月上旬までの約3週間、本山・永観堂において全寮制で行われます。この「宗学院」を3期終了すると住職になる資格が与えられます。

今年は約20名が規則正しい日課の下、勉強、修業をして9月5日に修了式が行われました。

【写真】 本山の宗学院での講義風景。講義をしているのは恵光寺の住職で、科目は「布教」

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■2011年9月7日

左京区全域の学区社協が一堂に会して研修

この9月7日、「左京区社協学区交流会」が左京総合庁舎(松ヶ崎)で行われました。これは左京区全域の28学区社協や各種団体、福祉の事業所、関係者が一堂に会して地域の福祉課題について話し合い、明日の活動の資とする全体研修会で、100人を超える参加者が熱心に研修に取り組みました。午前は事例発表、午後は分散会、最後に全体会で総まとめ、という具合に進められました。

震災以後、地域の防災体制、高齢者、障がいを持った人とどのように絆を作っていくのか、ということがクローズアップされていますが、まさに、そういう課題について、みんなが事例を紹介しながら明日の街づくりのために知恵を出し合いました。最終的には、行政や福祉サービス機関と連携して、人々が、おたがいに信じあう関係を地道に作っていくことが、生きていてよかった、という街づくりになる、という話になりました。

【写真】 9月7日の左京区学区社協交流会。全体のまとめをしているのは恵光寺住職です(9月7日/左京総合庁舎大会議室)

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■2011年9月7日

お花教室

恵光寺の岸野芳子坊守がなくなってから、恵光寺のお花教室はなしになっていました。これから先どうしようか、と思案していたのですが、このたび芳子坊守の友人であります松田京子先生(御室流華務職/宝塚市在住)が月に2度恵光寺までお越しくださり、ご指導いただくことになりました。お花をやってみよう、とおっしゃる方は恵光寺までご連絡ください。

写真はこの日に松田先生が生けてくださった玄関のお花です。花材はクルクマ。クルクマはウコンの近縁まのお花で、花弁の中に水を注いでやる、という不思議なお花です。

【写真】 新しいお花の先生、松田京子先生の生け花。中央のお花がクルクマ

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■2011年9月11日

東日本大震災6か月 アメリカニューヨークの世界貿易センタービルのテロ10周年

東日本大震災から6か月。津波被害の大変さは心痛の極みです。その中から人々の絆(きずな)のとうとさが広がってきています。悲しみをわがごととして受け止める力が新しい日本を作っていく、と思います。

同時に、恐ろしいのは人為災害の原発放射能。たくさんの人々が生きる糧であった漁業、牧畜、農業から撤退を余儀なくされてしまったのも悲痛です。避難のため家族がバラバラになっているのもつらいです。こんな苦しみを味わっているのに、まだ原発推進をいう政府はどういうことなのか、悲しい限りです。結果的には、いのちと国の経済発展と天秤(てんびん)にかけることになります。これは本末転倒です。

アメリカニューヨークの世界貿易センタービルのテロ10周年。アメリカは報復措置という名の下、この10年間、イラク、アフガニスタン、中近東にどんどん侵攻していき、たくさんの市民が犠牲になりました。戦争の繰り返しによる抜き差しならぬ世界を作りつつあります。報復措置がテロをなくす、とはじまったものが今や世界中テロの恐怖におびえる、という風になりました。

あらためて、お釈迦さまの「恨みは恨みをもっては解決しない。忘れることによってのみ恨みはなくなる、これは変わらない真理だ(法句経182番)」というお経を肝に銘じたいものです。

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■2011年9月13日

中秋の名月

東日本大震災、放射能被害、台風12号の大被害、ニューヨークの世界貿易センタービルテロ10周年などなど、重い心もちの中、今年の中秋の名月を見上げました。やはり、澄み切った空に浩々と静かに照る月は心に染み入るものでした。

翌日、恵光寺の総代さんである中西彦介さんが「昨日の月はきれいやった。ひとりで1時間ほど眺めていたんや。恵光寺の和尚もこの月、見てるかなぁ、と思って見ていたんや」と話してくれました。

恵光寺芳子坊守が亡くなって初めての中秋の十五夜。私の気持ちを察して月を見ていてくださったのか、と思うと胸が熱くなりました。

お月さんはどこからでも眺められ、逆にお月さんがどんな人をも見ている、ということをまたまた教えられました。

【写真】 夜中に恵光寺の境内から撮った中秋の十五夜

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■2011年9月16日

市原野社協ふるさと探訪

市原野社協ではボランティアを中心にプチハイキングを行っています。担当は副会長の谷村候之さん。谷村さんのアイデアで今回は「市原野探訪」となりました。

内容は江戸時代初期に京都所司代であった板倉重矩(いたくらしげのり)が指導して作った市原の灌漑用水路ウォークと藤原惺窩の寓居あたりの散策。地元の歴史を垣間見て、またまた市原の里が好きになりました。

【写真右】 市原神社から神宮寺の屋根ごしに向山を見るスポットで参加者の集合写真。皆さんの足元に市原灌漑用水路が走っています。また、この神宮寺には京都所司代・板倉重矩(いたくらしげのり)公の位牌が祀られています
【写真上】 「藤原惺窩寓居跡」と記した石柱を紹介する恵光寺の住職(市原町サンタウンの公園)

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■2011年9月19日

恵光寺の秋施餓鬼法要

年中行事の一つであります「秋彼岸施餓鬼(せがき)法要」。本堂の外陣に設(しつら)えた施餓鬼壇に餓鬼飯と山海の盛りものを上げて供養します。多くの檀信徒がご先祖の供養に焼香をし、手を合わせました。東日本大震災・津波で亡くなられた方々、台風12号でなくなられた方々のご回向もみなさんといっしょに勤めました。

このお彼岸に合わせて、篤信の檀徒さまのご寄進で脇壇灯籠2対が出来上がり、披露されました。灯籠は本堂の脇壇(慶寿庵壇と檀家先祖位牌壇の2箇所)に取り付けられ、仏さまのお顔がぐんと輝いて拝めるようになりました。ありがたいことです。

今回の灯籠電灯はLED灯を使用しています。恵光寺本堂の照明もだいぶLED灯が使われるようになってきています。

【写真】 本堂脇壇に吊り下げられた灯籠(慶寿庵壇)

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■2011年9月23日

彼岸花が咲き誇っています

秋彼岸になると咲く彼岸花。根が毒を持っていたり、お墓に咲くのであまりいいイメージではありません。しかし別名は「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」。仏さまの国に咲く美しい青、白、紅、黄の四つの色の蓮華の一つ。紅蓮華のこと。そういわれると尊い形・色の花です。

市原の里にも畔などに咲いて、青い空に映えていよいよ秋だなぁ、と思わせます。

【写真】 市原町中在地の田の畔で。右は町内に祀られている愛宕(あたご)碑

 

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