恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第121話:2018年5月

悩みは自分の心がつくる

五月病というのがあります。新年度の4月になり、新しい学校や職場の環境に希望をもって臨むのですがひと月たって人間関係がうまくいかないなど、その環境に適応できないで悩んだりするうち、うつのような状態になることです。5月のゴールデンウィーク明けごろに起こることが多いためこう呼ばれています。
生きていれば悩みは付いてまわります。逃れることはできません。
悩むのは目の前に悩ませるものがあるから悩む、ということですが、もう少し深く見てみると、悩むこちら側に問題があります。自分の物差しを基準としてまわりのものを見るからです。私を悩ますものは私のまわりのものである、と決めてかかると悩みはどんどん増していきます。悩みは自分の心がつくるのです。

わたしには子がある。私には財があると思って愚かな人は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

お釈迦さまの『法句経』62番のことばです。
「自己が自分のものでない」とは「自分の心は調和のとれた自分ではなく、あるときは欲、あるときは瞋(いかり)が自分の心を乱す。そんな心の物差しで回りを見ると、まわりのものすべてが自分にとって悩みの種となる」ということです。こういう道理を知らないことを「愚痴(ぐち)」といいます。

今日はもう一つお経からの聖語を紹介します。

心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。
すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。(『華厳経』/「仏教聖典」から)

悩みは自分の心がつくるものであり、またきよらかな心もこの自分の心がつくるのです。


ではまた次回に。 合掌

■第122話:2018年6月

ギャンブルと仏教

カジノ実施法案を通そうという動きがあります。カジノとは、賭博、ギャンブルのことで、お金をかけて勝負を争うゲームです。現内閣は「成長戦略」の一環として2020年東京オリンピックに合わせて日本でのカジノの解禁を目指しています。訪日観光客からしっかりお金を稼ごう、という狙いです。
わが日本では、ギャンブルは健康で文化的な社会生活に反し、人の心をむしばみ、人間関係を悪くしてしまう、などの理由から刑法で禁止されています。今回、それを法律をかえてカジノができるようにしようとするものです。

仏教は「縁(関係性)」を基調に人の生き方を考える宗教です。つまり「人は一人で生きていけない。人はおたがい、愛し愛され、助け助けられている、という関係性の中を生きている」と教えています。
仏教は、人は己の利益だけを考え、他人をけおとしてでも自分の願望をかなえようとする「欲(よく)」を厳に慎むべきもの、としますし、反対にその「欲」が叶わないと、人を恨み、人を悪く思い、挙句には人を傷をつけてしまう「瞋(いかり)」がでてくるけれど、これもいけないこと、とします。この「欲」と「瞋」とは人間関係を悪くし、その結果、相手を不幸にするだけでなく、その不幸は自分にかえってくるのです。
そういうことを見ていくとギャンブルは仏教が目指す人の生き方としてはふさわしくない、といえます。

日本にはすでに競馬や競輪、パチンコ、と法的に認められているギャンブルがあります。厚労省によりますと日本のギャンブル依存者の割合は諸外国に比べて高く、ギャンブル依存によって借金がふえたり家庭崩壊に追い込まれる人は少なくないそうです。
カジノが行なわれると、このような傾向がさらに強まり、ギャンブル依存者がふえていくでしょう。今度はその依存者対策のためにまた膨大なお金を投資しなければなりません。
経済効果の追求だけが理由で人の心・いのちが置き去りにされてしまっては元も子もありません。
みなさんはどうお考えでしょうか。


合掌

■第123話:2018年7月

病気だから死ぬのではありません。人間だから死ぬのです。

人は病(やまい)を患(わず)らうと医療にかかります。あるときは病が治ったりするでしょう。しかし、いずれ、また次の病にかかり、その都度、施術や投薬をして闘病生活を続けます。そしてとうとう亡くなるときが来ます。そうすると闘病の挙げ句ですから「病気で死んだ」ということになります。
しかし病気をしなくても人はかならず死ぬのです。死ぬのは病気のせいではなく、生まれてきたものにとって「死」は宿命です。そういう観点でいいますと「死」はすべての人々にとって平等に与えられた運命です。
私だけが苦しいのではありません。人はみんな平等に苦しいのです。「死」に差別はありません。

法然上人は、貴族であれ、僧侶であれ、庶民であれ、善人であれ、悪人であれ、どんな階層の人であっても「死」は平等であるとおっしゃいました。
「死」に差別がない、だから生まれ往くところはたった一つ、同じ平等の世界、阿弥陀さまの極楽浄土だ、と言い切られました。
病気だけではありません、地震、事故などの災難に遭遇して亡くなることがあります。「せっかく生きてきたのになぜ、何のために犠牲になるのだ、そんな不条理なことは許されない」と人は言います。
しかし、私どもはこの不条理な世界を生きているのです。不条理な世界だからこそ「死」は平等であり、私どもを一人残らず平等に阿弥陀さまが抱き取って下さるのです。

※ 付け加えますが、人災である戦争などによる死は、人殺しそのものが許されない分、まさに「犠牲」であり、これは決してあってはならないことです。


合掌

■第124話:2018年8月

お盆。亡くなった人に手を合わすとき

私どもが、亡くなった人に手を合わせて拝むことは、とてもとうといことです。
お仏壇の前で毎日そうしている人もあれば、ときどきしている人もあるでしょう。またほとんどしない、という人でもお盆やお彼岸になると手を合わせて拝む、という人は多いと思います。
なぜ、亡くなった人に手を合わすのか、訳を考えると「その人のおかげで今日の私があるから感謝して拝む」というのがふつうの答えでしよう。「感謝しなければならない人」があるから拝む、ということです。

仏教の「なくなった人を拝む」はちょっとちがいます。
相手がすばらしい人だから拝みなさい、というのではなく、この自分が至らないから拝むのです。
どういうことでしょうか。
アメリカで活躍された嶋野榮道という老師は生前「仏教は次の3つです。」といっておられました。紹介します。
① Thank you. サンキュー 「ありがとうございます。」
② I’m sorry.   アイムソーリー 「ごめんなさい。」
③ I love you.  アイラブユー 「あなたをだいじにいたします。」

亡くなった人の前にきちんと坐って手を合わせて、静かに目をつむり、息を調え、しばらくのあいだ座ってみてください。亡くなった人とは、たとえば、おばあさんのこと、おじいさんのこと、など。亡くなった人とこの私の関係を嶋野老師のこの3つのことばで表わしておられます。
① 「おばあちゃん、育てて戴き、ありがとうございました。おかげで私は今ここに生きています。」(サンキュー)
② 「おばあちゃんにきつく叱られたとき、逆らっておばあちゃんのこと「死ね!」と言ったことがありました。大きくなって、あれは私が悪かった、と今とても反省しています。ほかにもおばあちゃんに謝らなければならないこと、いっぱいあります。ほんとうにごめんなさい。」(アイムソーリー)
③ 「そんなおばあちゃん、これからもこうやってお参りをしてあなたを忘れないよう、だいじにいたします。」(アイラブユー)

これが「なくなった人を拝む」ということでしょう。
つまり、相手がすばらしいからではなく、「いたらない自分」に気がついたとき、亡くなった人を大切に思う気持ちが生まれ、どこか心の安らぐ自分に出逢うのです。

お盆にあらためて亡くなった人びとに手を合わせましょう。できれば合掌して心で「南無阿弥陀仏」と申しましょう、いや、大きな声で「南無阿弥陀仏」というようにいたしましょう。


合掌

■第125話:2018年9月

お彼岸。悪いことはしないでいいことをしよう、と心がけて生活

彼岸とは書いて字のとおり、あちらの岸ということで、こちらの岸(此岸)に対する言葉です。こちらの岸、つまり私たちが住んでいる悩み・苦しみのある世界に対して、こだわりなく自由な心で生きられるところをあちらの岸、「浄土」といいます。その浄土にいるような気持になるために仏教的生活目標の実践をしましょう、というのがお彼岸です。
どうすれば、そんな心おだやかに生活することができるか、と申しますと、やはり、自分のいのちは戴いたいのち、このいのちの根源を喜ぶことからはじまるといえます。
いのちを喜ぶ。この彼岸の機会に、亡くなった人をお参りするのは、数えきれないいろんないのちによって今のこの私がある、ということを確認し、いのちを喜ぶのです。
彼岸のあいだだけでも、ふだんの生活とはちがって、一歩立ち止まり、悪いことをしないでいいことをしよう、という気持ちで生活する、これが彼岸だと思います。

落語に「天王寺詣り」というのがあります。喜六という男が自身の不注意から愛犬を死なせてしまい、知り合いの甚兵衛さんに「今日は彼岸やさかいに」と言われ、犬の供養のため二人で四天王寺に行く、というお話です。この落語の枕のところを紹介します。声を出して実際に落語をしているように読んでみてください。

甚兵衛・・ さあこっち、はいんなはれ。今日はなんや、にこにこと嬉しそうに笑てるが、どないした?
喜 六・・ へへ、あんた、珍しいもんが好きや、言うたはりましたが、いっぺん珍しいもん、見せたげまひょか。
甚兵衛・・ ほう、珍しいもんてなんや。
喜 六・・ あんた、彼岸、見はったことおますか。
甚兵衛・・ 何を?
喜 六・・ 彼岸。
甚兵衛・・ 彼岸? 彼岸ってなんや。
喜 六・・ さあ、知んならへんやろ。いっぺん、わたいとこのうちに来てみなはれ。うちの裏に小さな穴があいてまんねん。そっから出たり入ったり、出たり入ったりしてまんねん。丈がネズミよりちょっと大きいくらいでね、ニュニュッっと鳴いてまんねん。
甚兵衛・・ :なんじゃ、お前がいうてるとイタチみたいなな。
喜 六・・ ちょっとも違いまへん。わたいもイタチや、ばっかり思っとりましたん。あんまり出入りしよるさかいにね、下駄で蹴ったろ、と思うたら、そこへ藤助はんが入ってきてね、「これっ、なにをすんねん、彼岸やがな」。
まぁ、彼岸て、イタチによう似てますな。
甚兵衛・・ 何を言うね。それはイタチが出たんやがな。
喜 六・・ あ? イタチが出たら彼岸て言いますか。ほんなら、ネズミが出たら中日(チューニチ)?
甚兵衛・・ ようそんなこと。イタチが出たさかいに彼岸やない。今日は彼岸中やさかい殺生をすなよ、これ、なにをすんねん。彼岸やがな、ってこない言わはったんや。
喜 六・・ あ、さよか。それやったらたんねますけど、彼岸て何です。
甚兵衛・・ 天王寺さんで七日のあいだ、無縁の仏の供養をしなはんねん。

これが落語の「天王寺詣り」の枕のところ。
彼岸のあいだは、ムダな殺生はしないで、縁なき人の分までお参りをしてあげなさい、それが彼岸なんだよ、と教えているのです。


合掌

■第126話:2018年10月

あたえるとき人はゆたかになる

日々のふだんの暮らしの中で、周りの人をしあわせにし、また自分もしあわせになる、そんな行いがあります。仏教ではそれを「布施」といいます。
「布施」というとお金やものをもっている人が持っていない人にお金やモノを施すこと、と思ってしまいますが、これといったお金、モノ、地位もない人ができる施しのことです。「無財の七施」といいます。
やさしいまなざしで相手に接する眼施(げんせ)。笑顔がやさしい和顔施(わげんせ)。思いやりがあるあたたかいことばの言施(ごんせ)。この身を人のために尽くす身施(しんせ)。思いやりの心で気くばりをする心施(しんせ)。席を譲る床座施(しょうざせ)。一夜の宿を提供する房舎施(ぼうしゃせ)。
このごろは、この「七施」にもう一つ「聞施」(もんせ)を加えることがあります。「聞施」は相手の話を聞くということです。相手の話をしっかり聞くことで「傾聴(けいちょう)」などともいわれます。
そもそも「布」は、ひろく行きわたらせる、という意味ですので「布施」は「ひろく施す」ことです。
ここで大事なのは、施しで周りの人をしあわせにするのですが、そのことで自分もしあわせになり、こころゆたかになる、というところです。
無財の七施(笑顔、あたたかいことば、席をゆずること、などなど・・・)の実践で、与える人と、受け取る人とがあたたかくつながり、人はしあわせになるのです。

全青協の『ほとけさまの教え』にこんなすばらしいフレーズがありますよ。
あたえるとき 人は ゆたかになり、
おしむとき いのちは まずしくなる
よろこんであたえる人間となろう


合掌

■第127話:2018年11月

絶望のふちに立った人は

先日の朝日新聞「天声人語」にクヌギの実、ドングリにまつわるお話が紹介されていました。
埼玉県に住む49歳の男性のお話です。

この男性は、自分が卒業した高校のすぐ隣にあったクヌギが伐採される、という新聞記事を読んでさびしくなり、休日に行ってみたそうです。高さ20メートル超のなつかしい巨木はすでに枝を落とされ瀕死の状態でした。彼は根元に転がる丸々とした茶色の実を三つ、ポケットに入れて持ち帰り、ベランダの鉢に埋めました。半年後、かわいらしい黄緑色の目が顔を出しました。「やっぱりな。りっぱに育つ。大丈夫だ」と思いました。
実はこの男性には小学校4年生の娘さんがいます。生後まもなく脳が難病に侵されていることがわかりました。けいれん発作が続き、10時間におよぶ手術を経てようやく震えがやんだそうです。つらいリハビリに耐え、少しずつ体が動かせるようになりました。いまも左手の指は動かしにくいのですが、歩いて登校し、水泳も習う芯の強い元気な女の子になりました。
この秋、クヌギの茎は30センチほどに伸び、大小10枚ほどの葉を茂らせました。娘さんとともにベランダに立ちます。「大きくなれ」。男性はどちらにともなく語りかけるのです。
手のひらを転がるドングリが天を突くような巨木に育つ。生命の力強さ、しなやかさ。一度は絶望のふちに立たされた人は、それを信じられる。

伐採されたクヌギのそばに落ちていたドングリの実。だめかもしれない、と半信半疑で持って帰ってベランダの鉢に埋めました。ありがたいことに春には芽を出し、男性は思わず「やっぱりな」と自然の力、いのちの強さにうなづくのです。そのうち茎になり葉を茂らせていくドングリの強さはもう心配しないでいい、という気持ちにさせます。隣にいるわが子、生まれて間もなく難病とわかり、大手術をうけます。生死の境をさまよう娘を前にこの男性は、どんな気持ちだったのか、推察することができます。
さいわい手術は成功し、幼い子ながら、つらいリハビリを歯を食いしばってこなしてきて、今では歩けるようになりました。男性はドングリの生命力と娘の生命力をかさねあわせて、思わずドングリにも娘にも「大きくなれ」とこの男性は語りかけます。いのちの強さをまざまざと感じて喜んでいるのです。いのちはつながって生きている、という事実にあらためて手をあわせていきたいものです。


合掌