恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第121話:2018年5月

悩みは自分の心がつくる

五月病というのがあります。新年度の4月になり、新しい学校や職場の環境に希望をもって臨むのですがひと月たって人間関係がうまくいかないなど、その環境に適応できないで悩んだりするうち、うつのような状態になることです。5月のゴールデンウィーク明けごろに起こることが多いためこう呼ばれています。
生きていれば悩みは付いてまわります。逃れることはできません。
悩むのは目の前に悩ませるものがあるから悩む、ということですが、もう少し深く見てみると、悩むこちら側に問題があります。自分の物差しを基準としてまわりのものを見るからです。私を悩ますものは私のまわりのものである、と決めてかかると悩みはどんどん増していきます。悩みは自分の心がつくるのです。

わたしには子がある。私には財があると思って愚かな人は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

お釈迦さまの『法句経』62番のことばです。
「自己が自分のものでない」とは「自分の心は調和のとれた自分ではなく、あるときは欲、あるときは瞋(いかり)が自分の心を乱す。そんな心の物差しで回りを見ると、まわりのものすべてが自分にとって悩みの種となる」ということです。こういう道理を知らないことを「愚痴(ぐち)」といいます。

今日はもう一つお経からの聖語を紹介します。

心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。
すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。(『華厳経』/「仏教聖典」から)

悩みは自分の心がつくるものであり、またきよらかな心もこの自分の心がつくるのです。


ではまた次回に。 合掌

■第122話:2018年6月

ギャンブルと仏教

カジノ実施法案を通そうという動きがあります。カジノとは、賭博、ギャンブルのことで、お金をかけて勝負を争うゲームです。現内閣は「成長戦略」の一環として2020年東京オリンピックに合わせて日本でのカジノの解禁を目指しています。訪日観光客からしっかりお金を稼ごう、という狙いです。
わが日本では、ギャンブルは健康で文化的な社会生活に反し、人の心をむしばみ、人間関係を悪くしてしまう、などの理由から刑法で禁止されています。今回、それを法律をかえてカジノができるようにしようとするものです。

仏教は「縁(関係性)」を基調に人の生き方を考える宗教です。つまり「人は一人で生きていけない。人はおたがい、愛し愛され、助け助けられている、という関係性の中を生きている」と教えています。
仏教は、人は己の利益だけを考え、他人をけおとしてでも自分の願望をかなえようとする「欲(よく)」を厳に慎むべきもの、としますし、反対にその「欲」が叶わないと、人を恨み、人を悪く思い、挙句には人を傷をつけてしまう「瞋(いかり)」がでてくるけれど、これもいけないこと、とします。この「欲」と「瞋」とは人間関係を悪くし、その結果、相手を不幸にするだけでなく、その不幸は自分にかえってくるのです。
そういうことを見ていくとギャンブルは仏教が目指す人の生き方としてはふさわしくない、といえます。

日本にはすでに競馬や競輪、パチンコ、と法的に認められているギャンブルがあります。厚労省によりますと日本のギャンブル依存者の割合は諸外国に比べて高く、ギャンブル依存によって借金がふえたり家庭崩壊に追い込まれる人は少なくないそうです。
カジノが行なわれると、このような傾向がさらに強まり、ギャンブル依存者がふえていくでしょう。今度はその依存者対策のためにまた膨大なお金を投資しなければなりません。
経済効果の追求だけが理由で人の心・いのちが置き去りにされてしまっては元も子もありません。
みなさんはどうお考えでしょうか。


合掌

■第123話:2018年7月

病気だから死ぬのではありません。人間だから死ぬのです。

人は病(やまい)を患(わず)らうと医療にかかります。あるときは病が治ったりするでしょう。しかし、いずれ、また次の病にかかり、その都度、施術や投薬をして闘病生活を続けます。そしてとうとう亡くなるときが来ます。そうすると闘病の挙げ句ですから「病気で死んだ」ということになります。
しかし病気をしなくても人はかならず死ぬのです。死ぬのは病気のせいではなく、生まれてきたものにとって「死」は宿命です。そういう観点でいいますと「死」はすべての人々にとって平等に与えられた運命です。
私だけが苦しいのではありません。人はみんな平等に苦しいのです。「死」に差別はありません。

法然上人は、貴族であれ、僧侶であれ、庶民であれ、善人であれ、悪人であれ、どんな階層の人であっても「死」は平等であるとおっしゃいました。
「死」に差別がない、だから生まれ往くところはたった一つ、同じ平等の世界、阿弥陀さまの極楽浄土だ、と言い切られました。
病気だけではありません、地震、事故などの災難に遭遇して亡くなることがあります。「せっかく生きてきたのになぜ、何のために犠牲になるのだ、そんな不条理なことは許されない」と人は言います。
しかし、私どもはこの不条理な世界を生きているのです。不条理な世界だからこそ「死」は平等であり、私どもを一人残らず平等に阿弥陀さまが抱き取って下さるのです。

※ 付け加えますが、人災である戦争などによる死は、人殺しそのものが許されない分、まさに「犠牲」であり、これは決してあってはならないことです。


合掌

■第124話:2018年8月

お盆。亡くなった人に手を合わすとき

私どもが、亡くなった人に手を合わせて拝むことは、とてもとうといことです。
お仏壇の前で毎日そうしている人もあれば、ときどきしている人もあるでしょう。またほとんどしない、という人でもお盆やお彼岸になると手を合わせて拝む、という人は多いと思います。
なぜ、亡くなった人に手を合わすのか、訳を考えると「その人のおかげで今日の私があるから感謝して拝む」というのがふつうの答えでしよう。「感謝しなければならない人」があるから拝む、ということです。

仏教の「なくなった人を拝む」はちょっとちがいます。
相手がすばらしい人だから拝みなさい、というのではなく、この自分が至らないから拝むのです。
どういうことでしょうか。
アメリカで活躍された嶋野榮道という老師は生前「仏教は次の3つです。」といっておられました。紹介します。
① Thank you. サンキュー 「ありがとうございます。」
② I’m sorry.   アイムソーリー 「ごめんなさい。」
③ I love you.  アイラブユー 「あなたをだいじにいたします。」

亡くなった人の前にきちんと坐って手を合わせて、静かに目をつむり、息を調え、しばらくのあいだ座ってみてください。亡くなった人とは、たとえば、おばあさんのこと、おじいさんのこと、など。亡くなった人とこの私の関係を嶋野老師のこの3つのことばで表わしておられます。
① 「おばあちゃん、育てて戴き、ありがとうございました。おかげで私は今ここに生きています。」(サンキュー)
② 「おばあちゃんにきつく叱られたとき、逆らっておばあちゃんのこと「死ね!」と言ったことがありました。大きくなって、あれは私が悪かった、と今とても反省しています。ほかにもおばあちゃんに謝らなければならないこと、いっぱいあります。ほんとうにごめんなさい。」(アイムソーリー)
③ 「そんなおばあちゃん、これからもこうやってお参りをしてあなたを忘れないよう、だいじにいたします。」(アイラブユー)

これが「なくなった人を拝む」ということでしょう。
つまり、相手がすばらしいからではなく、「いたらない自分」に気がついたとき、亡くなった人を大切に思う気持ちが生まれ、どこか心の安らぐ自分に出逢うのです。

お盆にあらためて亡くなった人びとに手を合わせましょう。できれば合掌して心で「南無阿弥陀仏」と申しましょう、いや、大きな声で「南無阿弥陀仏」というようにいたしましょう。


合掌

■第125話:2018年9月

お彼岸。悪いことはしないでいいことをしよう、と心がけて生活

彼岸とは書いて字のとおり、あちらの岸ということで、こちらの岸(此岸)に対する言葉です。こちらの岸、つまり私たちが住んでいる悩み・苦しみのある世界に対して、こだわりなく自由な心で生きられるところをあちらの岸、「浄土」といいます。その浄土にいるような気持になるために仏教的生活目標の実践をしましょう、というのがお彼岸です。
どうすれば、そんな心おだやかに生活することができるか、と申しますと、やはり、自分のいのちは戴いたいのち、このいのちの根源を喜ぶことからはじまるといえます。
いのちを喜ぶ。この彼岸の機会に、亡くなった人をお参りするのは、数えきれないいろんないのちによって今のこの私がある、ということを確認し、いのちを喜ぶのです。
彼岸のあいだだけでも、ふだんの生活とはちがって、一歩立ち止まり、悪いことをしないでいいことをしよう、という気持ちで生活する、これが彼岸だと思います。

落語に「天王寺詣り」というのがあります。喜六という男が自身の不注意から愛犬を死なせてしまい、知り合いの甚兵衛さんに「今日は彼岸やさかいに」と言われ、犬の供養のため二人で四天王寺に行く、というお話です。この落語の枕のところを紹介します。声を出して実際に落語をしているように読んでみてください。

甚兵衛・・ さあこっち、はいんなはれ。今日はなんや、にこにこと嬉しそうに笑てるが、どないした?
喜 六・・ へへ、あんた、珍しいもんが好きや、言うたはりましたが、いっぺん珍しいもん、見せたげまひょか。
甚兵衛・・ ほう、珍しいもんてなんや。
喜 六・・ あんた、彼岸、見はったことおますか。
甚兵衛・・ 何を?
喜 六・・ 彼岸。
甚兵衛・・ 彼岸? 彼岸ってなんや。
喜 六・・ さあ、知んならへんやろ。いっぺん、わたいとこのうちに来てみなはれ。うちの裏に小さな穴があいてまんねん。そっから出たり入ったり、出たり入ったりしてまんねん。丈がネズミよりちょっと大きいくらいでね、ニュニュッっと鳴いてまんねん。
甚兵衛・・ :なんじゃ、お前がいうてるとイタチみたいなな。
喜 六・・ ちょっとも違いまへん。わたいもイタチや、ばっかり思っとりましたん。あんまり出入りしよるさかいにね、下駄で蹴ったろ、と思うたら、そこへ藤助はんが入ってきてね、「これっ、なにをすんねん、彼岸やがな」。
まぁ、彼岸て、イタチによう似てますな。
甚兵衛・・ 何を言うね。それはイタチが出たんやがな。
喜 六・・ あ? イタチが出たら彼岸て言いますか。ほんなら、ネズミが出たら中日(チューニチ)?
甚兵衛・・ ようそんなこと。イタチが出たさかいに彼岸やない。今日は彼岸中やさかい殺生をすなよ、これ、なにをすんねん。彼岸やがな、ってこない言わはったんや。
喜 六・・ あ、さよか。それやったらたんねますけど、彼岸て何です。
甚兵衛・・ 天王寺さんで七日のあいだ、無縁の仏の供養をしなはんねん。

これが落語の「天王寺詣り」の枕のところ。
彼岸のあいだは、ムダな殺生はしないで、縁なき人の分までお参りをしてあげなさい、それが彼岸なんだよ、と教えているのです。


合掌

■第126話:2018年10月

あたえるとき人はゆたかになる

日々のふだんの暮らしの中で、周りの人をしあわせにし、また自分もしあわせになる、そんな行いがあります。仏教ではそれを「布施」といいます。
「布施」というとお金やものをもっている人が持っていない人にお金やモノを施すこと、と思ってしまいますが、これといったお金、モノ、地位もない人ができる施しのことです。「無財の七施」といいます。
やさしいまなざしで相手に接する眼施(げんせ)。笑顔がやさしい和顔施(わげんせ)。思いやりがあるあたたかいことばの言施(ごんせ)。この身を人のために尽くす身施(しんせ)。思いやりの心で気くばりをする心施(しんせ)。席を譲る床座施(しょうざせ)。一夜の宿を提供する房舎施(ぼうしゃせ)。
このごろは、この「七施」にもう一つ「聞施」(もんせ)を加えることがあります。「聞施」は相手の話を聞くということです。相手の話をしっかり聞くことで「傾聴(けいちょう)」などともいわれます。
そもそも「布」は、ひろく行きわたらせる、という意味ですので「布施」は「ひろく施す」ことです。
ここで大事なのは、施しで周りの人をしあわせにするのですが、そのことで自分もしあわせになり、こころゆたかになる、というところです。
無財の七施(笑顔、あたたかいことば、席をゆずること、などなど・・・)の実践で、与える人と、受け取る人とがあたたかくつながり、人はしあわせになるのです。

全青協の『ほとけさまの教え』にこんなすばらしいフレーズがありますよ。
あたえるとき 人は ゆたかになり、
おしむとき いのちは まずしくなる
よろこんであたえる人間となろう


合掌

■第127話:2018年11月

絶望のふちに立った人は

先日の朝日新聞「天声人語」にクヌギの実、ドングリにまつわるお話が紹介されていました。
埼玉県に住む49歳の男性のお話です。

この男性は、自分が卒業した高校のすぐ隣にあったクヌギが伐採される、という新聞記事を読んでさびしくなり、休日に行ってみたそうです。高さ20メートル超のなつかしい巨木はすでに枝を落とされ瀕死の状態でした。彼は根元に転がる丸々とした茶色の実を三つ、ポケットに入れて持ち帰り、ベランダの鉢に埋めました。半年後、かわいらしい黄緑色の目が顔を出しました。「やっぱりな。りっぱに育つ。大丈夫だ」と思いました。
実はこの男性には小学校4年生の娘さんがいます。生後まもなく脳が難病に侵されていることがわかりました。けいれん発作が続き、10時間におよぶ手術を経てようやく震えがやんだそうです。つらいリハビリに耐え、少しずつ体が動かせるようになりました。いまも左手の指は動かしにくいのですが、歩いて登校し、水泳も習う芯の強い元気な女の子になりました。
この秋、クヌギの茎は30センチほどに伸び、大小10枚ほどの葉を茂らせました。娘さんとともにベランダに立ちます。「大きくなれ」。男性はどちらにともなく語りかけるのです。
手のひらを転がるドングリが天を突くような巨木に育つ。生命の力強さ、しなやかさ。一度は絶望のふちに立たされた人は、それを信じられる。

伐採されたクヌギのそばに落ちていたドングリの実。だめかもしれない、と半信半疑で持って帰ってベランダの鉢に埋めました。ありがたいことに春には芽を出し、男性は思わず「やっぱりな」と自然の力、いのちの強さにうなづくのです。そのうち茎になり葉を茂らせていくドングリの強さはもう心配しないでいい、という気持ちにさせます。隣にいるわが子、生まれて間もなく難病とわかり、大手術をうけます。生死の境をさまよう娘を前にこの男性は、どんな気持ちだったのか、推察することができます。
さいわい手術は成功し、幼い子ながら、つらいリハビリを歯を食いしばってこなしてきて、今では歩けるようになりました。男性はドングリの生命力と娘の生命力をかさねあわせて、思わずドングリにも娘にも「大きくなれ」とこの男性は語りかけます。いのちの強さをまざまざと感じて喜んでいるのです。いのちはつながって生きている、という事実にあらためて手をあわせていきたいものです。


合掌

■第128話:2018年12月

葉が散るということ

良寛さんの辞世の句に
うらを見せ、おもてを見せて 散るもみじ
というのがあります。
自分の人生、ふりかえってみると、つらいこと、いやなこと、いっぱいありました。良寛さんのもみじの喩えでいえば「うら」の部分です。逆に、いいこと、しあわせなこともちゃんとあったはずでこれは「おもて」のこと。いいことばかりで人生が終わるわけでもないし、わるいことばかりが続く人生でもありません。うら・おもての両方を繰り返し乍ら、今日まで来た、と言えます。いいも悪いも丸ごと、そのまま私の人生です。その人生が終わろうとしている、ああそうだったなぁ、という思いです。
しかし、もうひとつ、こんなことも言えます。
あのネ、
秋、柿の木の葉が
ひとつ残らず落ちてしまうのは
春に新しいいのちを
生むためだよ
これは、私が書いて門前掲示に貼りだしたものです。
もみじも柿の葉と同様、暑い日、寒い日、風雨にさらされながら、光合成を一所懸命してきて最期に土となって次のいのちを作ります。いのちは続くのです。
人ひとりひとりの一所懸命の人生がそれぞれあって、それがそのまま次のいのちに繋がっている、とみていくと、このわたし、一人ではない、と思えませんか。葉の散るさまをみることは、このわたしの生きる力になる、というものです。


合掌

■第129話:2019年1月

新年に読む 真民さんの詩

新年おめでとうございます。皆さんにとってそして日本の人々にとって、世界の人々にとって、本当にいい年になるように願ってやみません。
今の日本は経済成長政策のツケが回ってきたのでしょうか、格差社会、少子化、家庭崩壊、地域社会の崩壊など、ゆたかな人間関係がつくれない寂しい世の中なってきています。生活に追われ、目先のことに振り回され、物事をじっくり考える余裕のないまま、その日その日をすごしているのではありませんか。
やはりこれではいけない。こんな状態では次代の子どもたちはますます日本をさえようとはしなくなる、いや、できなくなると思います。
次代の人たちに日本を支えてもらうには、私どもは経済至上主義を反省し、小さくてもいい、カネではない、こころゆたかな行いをするように努めていかねばなりません。

坂村真民さんの詩に『あとからくる者のために』というのがあります。新しい一年の初めにこの詩を大きな声で読んでみたいと思います。

合掌

 

あとからくる者のために
坂村真民

あとからくる者のために
苦労をするのだ
我慢をするのだ
田を耕し
種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよ お前は
詩を書いておくのだ

あとからくる者のために
山を川を海を
きれいにしておくのだ

ああ 後からくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分で出来る何かをしてゆくのだ


合掌

■第130話:2019年2月

人はがんで亡くなるのではない、生きているからなくなるのです

日本ではがんが死亡率の第1位です。先進国では死亡率の第一位は心臓病だそうですが、日本はちがうんですね。理由は高齢社会、生活上のストレス、食事事情の変化など、いろいろといわれていますが、日本では今や2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで死んでいくそうです。

こんな中、樹木希林さんのがん宣言や、坂本龍一さんのがん宣言が、人間としての視座がある、ということで話題になっています。
樹木希林さんは
人は「いつかは死ぬ」という思いでしたが、がんになって「いつでも死ぬ」という感じ方になりました
と話していました。

また、坂本龍一さんはこう言っています。
自分を苦しめるこのがんの原因は何か、と手あたり次第勉強したが、結局、原因は無数ということがわかりました。つまり、がんの究極の原因は《生きていること》なのです
と。
私たち人はいろいろな条件がうまく作用してたまたま「いま生きている」のです。その条件がどこか崩れると病気になって、最後はなくなっていきます。同じように死ぬということもいろいろな条件が作用して死ぬのですから、その理由は特定できません。やっぱり「人だから死ぬ」のです。

音楽家である坂本さんは、がんになる前の2012年、宮城県名取市の農業高校で津波をかぶり、調律しないままのピアノに出逢いました。この「津波ピアノ」の音はがんを経た坂本さんには、より心地よく感じられるようになったそうです。そうして、
人間は調律していないピアノの音を「狂った」というけれど、本来あるべき姿に戻っただけ。狂うどころか、自然な音なのです
と言っています。
ピアノは調律された、条件が調ったときがいい状態、と思いますが、調律されていない、つまり条件が調っていないときが、本来のすがたなのだ、そこに目を向けるべきだ、といっています。
大事な見かたです。それではまた次回に。


合掌

■第131話:2019年3月

いただきます ごちそうさま って言っていますか

ご飯を食べるとき、手を合わせて「いただきます」って言います。終われば「ごちそうさま」と言って手を合わせます。
これはどういうことでしょうか。
ご飯を作って食卓に出してくださった人にいただきますといっているんだと思う人もいるでしょう。また魚や肉を捕獲して下さる人、穀物や野菜などを栽培、収穫して下さる人、またそれらを運んでくださる人たちに感謝をするということもあるでしょう。そして調理をして食べられるようにしてくださる人に対してもお礼をいうでしょう。それがいただきますの言葉の心ですね。

でもそれだけではありません。私たちは食事をすることで私の命をつないでいるのです。先ほどまで生きていた魚や牛を殺してそれを食べていますし、先ほどまで土の中で水を吸っていた大根やほうれん草、そんな野菜を引っこ抜いてきて食べて私たちの命をつないでいます。食卓に乗っている食べるものはよく見るとみんな先程まで生きていたものばかりです。ですから食事をするのを「食べる」ではなく「いただく」といいます。
中には白菜や牛肉をいただくときに「白菜の命を私の命にさせていただきます」「牛の命を私の命にさせていただきます」と言っていただくという人もあります。

ほかの命を奪って私の身体を維持するという厳粛な事実を、手をあわせて「いただきます」という作法で受け止めるのです。ですから「いただきます」の言葉には「ありがとうございます」という感謝と「ごめんなさい」という慚愧の心、この二つが入っているのです。

そして食事が終われば、ありがとうございました、ほかの命をいただいて私の命を長らえさせていただきました、この後はそのご恩に報いるよう、しっかりと生きて参ります、と決意の気持ちを言葉にします。それが「ごちそうさま」です。
それではまた次回に。


合掌

■第132話:2019年4月

こどものホンネ

小学校の勉強に「総合的な学習の時間」というのがあります。私も時々地元の小学校に寄せてもらって子どもたちに地元・市原野のこと、そんなに古くはありませんが私の小さいときのそれなりの昔のお話をします。
昔の人々の話のなかで、子どもたちがいちばん興味を持つのは「家族が助け合って生活をしている」というところです。
意外に思われるかもしれませんが、そのときの話の様子を再現してみます。

みんなは今お家で料理をするのもお風呂をわかすのもガスや電気でスイッチ一つオスだけでするからわからないけど、昔はそんな便利ではなかったの。家の中には土間があってそこには「おくどさん」という竈があって、木の枝や割り木を燃やし、その火でご飯を炊き、おかずを炊いて食べるんだ。そこでお湯をわかしたりするんだ。
ではその焚き物はどうして作るかというと、秋が終わるころに大人が山に入って、カシやクヌギなどの木を伐って、それを運びやすく細かく切って家に持って帰るんだ。そのとき子どもたちは大人についていって大したことはできないけど、精いっぱい大人の人の仕事を手伝うんだ。小さな木の枝の束は子どもでも運べるからね。木の枝などを家に持って帰ると大人がそれを斧で割って割木にする、それを束ねて家の壁あたりに積み上げてひと冬の燃料とするのだ。
トイレとお風呂はたいてい家の外にあった。家から履き物を履いていくんだ。寒い夜にトイレやお風呂に行くのはつらかったんだ。お風呂に使う水はお家の前に流れている用水路からバケツで汲んで風呂おけに入れる、これは子どもの仕事でもあったんだ。夜になってお風呂に入っている人が「おぉぃ、湯がぬるいんだ、わかしてくれぇ―」というと家族の誰かがお風呂の焚き口に行ってその竈に割り木を放り込むんだ、しばらくしてそれに火が移ってお湯が沸くと、お風呂の中から「ありがとう、いいお湯になったぞ」というんだ。みんな助け合ってお風呂に入るんだよ。

という具合です。
ちょっと懐かしい話でしょ。ひと昔前の生活はものがゆたかでなかったから、みんなで燃料を集め、運び、また力をあわせて仕事をしたんだ。子どもたちもできる範囲で大人の仕事を手伝う、そうするとおじいさんやおばあさん「ありがとう、よくやってくれたね」とほめてくれる。子どもにとっては大人に褒められ、また頼りにされていることがうれしいのです。

今の子どもたちのこんな話をすると「昔の子どもっていいなぁ、お手伝いができて~」といいます。
私どもの小さいとき、手伝いなんか喜んでしたわけではありません。でも目の前でおばあちゃんが、おじいちゃんが、お姉ちゃんが、いろいろ仕事をしているのを見ていると、やっぱりしないといけない、という気持ちになるんですね。知らずしらずに、みんな助け合って生活をしているのです。
だからみんな顔を見あって言葉をかけながら、お互い頼りにしあって生きている、このことが子どもたちを育てるのです。
今の社会、子どもたちはいろんな点で孤立しています。大人も子どももおたがい、助け助けられる、という環境にはいません。きっと今の子どもはさびしいのです。助け助けられる人の和のつながりを子どもたちはあこがれるのだと思います。
子どもといっしょの家事、仕事をする、という大切さをあらためて思います。それではまた。


合掌

■第133話:2019年5月

仲睦まじく過ごす

マザーテレサのことば

インドの貧民といっしょに生活をしたカルカッタの修道女・マザーテレサ女史についてカトリックのシスターである渡辺和子さんはこんなことを言っておられます。

マザーテレサが初めて日本に来られたとき、いちばんびっくりしたのは、「きれいさ」だったと言われました。街並、建物、服装のすべて。しかし、こうも言われたのです。「きれいな家の中に、親子の会話、夫婦のいたわり合い、ほほえみがないとしたら、インドの小屋の中で仲睦まじく暮らす家族の方が豊かです」

外観はきれいでも家族や親子どうしの心が貧しかったらさびしいことです。「家族の豊かさ」は親子、夫婦がおたがい、相手を思いやっているか、そうでないか、にかかっているとも言えます。

 

人の世話をする人は擁護性が高い

もうひとつ。保健医療分野で看護学を研究しておられる及川裕子さんのことばを紹介します。

自分より弱い存在とのかかわりを経験したものの方が「養護性」が高い。乳幼児や高齢者の世話をした者ほど養護性が高い。

養護性とは相手を守る心、思いやる心、いたわる心のこと、相手のことを自然に世話ができることです。家の中でお姉ちゃんが幼い妹の世話をする、親がお年寄りの介護をする、それをまた子どもが手伝う、などの経験が、養護性を高めるのです。 昔のように大家族なら自然にこういうことができたのですが、今の日本の社会や家族の状態はそうではありません。ですから家の中にあってはそういう赤ちゃん、病人など、弱い人にはできるだけ接してその人を世話し守る、そんな機会を持ちたいものです。家にそういう人がいない、というなら、親戚や近所にそういう人を見かけては声をかけることも大事です。

家の中に貧しくて物がない、だからほほえみがないのだ、というのではありません。おたがい、みとめあい、助け合うところにほほえみがあり、それを仲睦まじく過ごす、というのです。


合掌

■第134話:2019年6月

同じことをくりかえす自然や人に感動を覚える

平山郁夫(1930 - 2009)という人がいます。スケールの大きい絵を次から次へと世に出した世界的な画家です。生まれは広島県尾道市、瀬戸内海の生口島(いくちじま)。1945年8月6日、学徒勤労動員として広島陸軍兵器補給廠(現在の広島大学医学部)に通っていたときに被爆。15歳の中学生が身心に受けたおそろしい体験は、後に作品《仏教伝来》を始めとする仏伝とシルクロード連作へ続く画業の原点になったと言われています。
その平山郁夫さん、生涯100回を超えるシルクロードの旅を経験して、このように語っておられます。

あの広大なシルクロードへ行くと、黄褐色の砂漠の中に庶民のたゆまぬ生活があるということを知らされます。
アフガニスタンの首都・カプールの路地の市場で出会った遊牧の人々は、今も昔も秋になると牧草求めて南の地に移動します。「去年もそうだった、一昨年もそうだった。おやじも、じいさんも、みんなそうしてきた」とそこにいる人たちは言う。その確信に満ちた穏やかな表情に私は眩暈(めまい)にも似た感動を覚えるのです。
今の日本やヨーロッパの近代化された社会とは違う価値観や物差しを持っている人々です。私はこういう自然や人に感動を覚えると、自分の絵の描き方に変化が生じ、努力をしようという気持ちが起こるのです。

同じことをくりかえす自然や人に感動を覚える、という平山さんの生き方。それに比べて今の私たちはどうでしょうか。同じことをくりかえす自然や人に学ぶことをせず、目の前の効果や、効率にのみ心を奪われ、かえって人の深さ、自然の恵みに気づかないまま日暮らしをしているのではありませんか。人生を根底から見直す感動、喜びという、とても大切なものから遠ざかっていくように思えてなりません。
身近なことでいいです。自然や人が同じことを営々とくりかえしている、という事実をもういちど発見し、そこに生きる力を得ていきたいものです。

それではまた来月、お会いいたしましょう。


合掌

■第135話:2019年7月

良寛さんの形見

また良寛さんのお話です。
良寛さん(1758-1831)は越後(いまの新潟県)におられた曹洞禅のお坊さんです。生涯、寺をもたず、漢詩や和歌を愛し、ひょうひょうとした生きた方とその人柄は多くの人たちから慕われ、今もファンが絶えません。
その良寛さん、晩年になって体が弱ってきます。そこで誰かが「良寛さん、あなたの形見をいただきとう存じます。あなたさまの形見は何でしょうか」」と言い寄ったのでしよう。良寛さんはそれに歌で答えています。
形見とて何か残さん 春は花 夏ホトトギス 
秋はもみじ葉
と。
形見というようなものはありません。あるとすれば春の桜、夏のホトトギス、秋のもみじ葉が私の形見です、とこたえたのです。
いま私どもが形見というと、亡くなった人の着物や指輪などを思い起こします。しかし良寛さんにはそんなもの何もありません。
自然のものはみんな私を育てている
良寛さんは、春にみごとに咲く桜を見て
散る桜、残る桜も ちる桜
と詠み、秋のもみぢ葉を見ては
裏を見せ 表を見せて 散るもみぢ
とうたうのです。この二首は良寛さんの辞世の句、とも呼ばれます。
世の中のあらゆるものは時間とともに変化し、何一つとして同じ形を留めるものはない、というのが仏教の見方です。その移ろいは花だけではなく、この私の生命についても同じことがいえます。このことを知ると、仏教の教えをそのままに、あの桜の花が、あのホトトギスが、そしてあの秋のもみぢ葉が、みんなみんな、この私・良寛を育ててくれた恩人なのだ。だからみんなみんな、私の形見なのだ、と。
考えてみれば、死んでいく私にとって世の中に形見でないものは何もない、すべてが私を育ててくれた恩人、それがそのまま私の形見、ということです。


合掌