恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第76話:2014年8月

執着は己れ自身を縛ってしまう

有田憂田 有宅憂宅

仏教は執着を離れよ、と説きます。
執着とはひとつのことに心がとらわれて、そこから離れないことです。仏教では執着すると、本来の自分をなくしてしまう、と警告しています。
たとえば、お金、土地。これらに執着すると、それが無くならないか、誰かに取られはすまいか、と毎日が心配になり、ひいては自分がほんとうにしなければならない本分を見失ってしまう、そういうことです。
『無量寿経』というお経に「有田憂田 有宅憂宅」ということばがでてきます。読み方は「ウーデン、ウーデン、ウータク、ウータク」で、実際に声を出して読むとすぐに憶えてしまう箇所です。意味は「田があれば田のことが気になり、家があれば家のことが心配の材料となる」で、土地や財産を持つと。それらが気になり、それらに縛られてしまう、ということです。
全く「執着」ということは「苦」の種です。

「捨ててこそ満つる」「虚室、白を生ず」「身心脱落」・・・

東洋の思想には「捨ててこそ満つる」という考え方は強いです。赤子が手にしたものを握りしめて放さないとき、無理にこじ開けようとすると大声で泣きわめく、これは誰にもおぼえのある光景です。子どもではなく、大人になったがゆえに、握りしめている手を放した方が、自由にその手が使えるではないか、という知恵を持ちますが、そのことに気がつくのはなかなか人生経験がいるようです。
儒教に「虚室、白を生ず」(荘子)ということばがあります。何もない部屋には、陽の光が差し込んで輝く、という意味です。心の中も同じで、心の中にいろんな執着物を入れておくと、陽の光は入らない、ものごとを正しく見ることができない、ということです。
禅宗の道元禅師に「身心脱落」ということばがあります。辞典などを引くと「身と心の束縛から自由になり,真に無我になりきった悟りの状態」と説明されています。世の中は自分中心に回っている、と思うと物事に執着しますが、大宇宙の中に、この小さな私がある、と戴くと、そよ風が、陽射しが、愛おしくなり、あらゆる景色がこの私を祝福してくれているのではないか、小さなことにこだわらなくてもいいじゃないか、と思ったりします。

「我」を捨てて「任せる」と安気

因幡(いなば/今の鳥取県)に念仏信仰の篤い人がありました。名前を源左さん、といいます。この人についてのエピソードはとても多く、近代の仏教史を語るときに必ず出てくる人です。そのエピソードの中からひとつ、紹介いたします。
ある日、朝早くに野良に牛(デン)を連れて草刈りに行ったときのことです。草刈りを終えて刈草四束をもって帰るとき「デンや、今朝はお前にみんな負わせるとしんどいからワシが一束背負う」と言ったのです。でもそうは言ったものの、いざ牛に三束背負わせて、自分が一束もとうとすると、これがとても重い。「ワシが背負うと言ったが、デンや、すまんがお前、ワシの分を背負うておくれ」と言って荷を牛に着けたのです。すると、なんと、ストンと楽になって、その時ふいっと「ここが他力というものか、わがはからいではないのだ、お慈悲もこの通りだ」と気付きましてね。それからというもの、世界が広くなって、安気になりました。不思議なことでした。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
この話はとても有名で、源左さん、オレが、という「我」を牛のデンに任せてしまったことによって、生き方が安気になった、もっと言えば阿弥陀さまに任せてしまうと、身も心も軽くなった、と悟ったのです。

仏教の執着を離れよ、という教えは単にものごとに対してだけでなく、自分の「我」というものから離れよ、と教えているのです。
それではまた次回に。

合 掌

■第77話:2014年9月

「仏教」「南無阿弥陀仏」は『感謝』『懺悔』『安心』

仏教は壮大な東洋思想、哲学、と思ったりする傾向がありますが、やはり仏教は宗教です。つまり具体的に、静座をし、手を合わせて「南無阿弥陀仏」(「南無釈迦牟尼仏」「南無妙法蓮華経」「南無大師遍照金剛」もそうです)と唱えて、自分の生き方をゆたかにするものです。
「仏教は『Thank you』『I'm sorry』『I love you』です」と言ったのはニューヨーク大禅堂の嶋野榮道師。つまり『ありがとうございます』『ごめんなさい』『あなたさまを大事にします』という三つ。
「南無阿弥陀仏」も同じことが言えます。「南無阿弥陀仏」と唱えることはこの三つを身体で表していることになります。

ほとけさまの前に静かに坐り、たとえば、亡き人々のことを思い、手を合わせますと、まず、自分の来し方を考えます。
(1)「あなたがいてくださったから今日の私が、いま、ここに在ります」と『ありがとうございます』の心が出てきます。「わが命をいただいた母あるは幸いなり、父あるは幸いなり。ご先祖あるは、さらにさらに幸いなり」といことばがありますが、まさに、『感謝』の境涯です。
(2)同時に、「あの時はいろいろとお世話になっていながら、悪口をついたり、反抗をしたり、ずい分と心配や迷惑をかけました」と自分をふりかえり『ごめんなさい』という気持ちがわいてきます。「こんな私が」と思えたとき、自然に『懺悔』の心が生じます。
(3)そして、この『ありがとうございます(感謝)』『ごめんなさい(懺悔)』の二つの気持ちが出てくると「ふだん、そんなに深く考えていなかったけれど、よくよく考えてみると、あなたはいつも私のことをこうやって観ていて下さったのですね」という殊勝な気持ちになります。
東井義雄先生のことばに「拝まない者もおがまれている。拝まないときもおがまれている」というのがあります。よくよく考えてみると、そのとおりです。今ここに在る「私」は、親や亡き人に拝まれているのです。でも、そう思った尻から、そのことを忘れてしまう私です。そんな私なのに、飽くことなく、ずうっと見守って下さっている、いや、拝んで下さっている方がおられるのです。
「知らなかったけど、いつもこんな私はあなたから拝まれているのだ」という感慨が、これから先、ずうっと『あなたさまを大事にします』という心的段階に高めてくれます。私はこれを何と名づければいいか、考えましたが、結局この状態を『安心』と呼ぶことにしました。この『安心』は頭で思うだけでは長続きしません。折に触れ、できれば、一日いちど、ほとけさまの前に静かに坐り、香を焚き、灯をあげて、手を合わせる、その形が大事、と思います。この形を続けることを「事相」といいます。理屈で説明することを「理相」というのに相対しています。

もういちど申しましょう。仏教は『ありがとうございます』『ごめんなさい』『あなたさまを大事にします』という三つ。南無阿弥陀仏と唱えることは、そのまま己れの心が『感謝』『懺悔』『安心』につつまれて在る、ということなのです。それではまた次回に。

合 掌

■第78話:2014年10月

終活・エンディングノートを考える

私も「前期高齢者」の仲間入りをしました。今まで以上に、自分の問題としていまの日本の高齢社会を考えねばならない立場にあるのです。
その中に「終活」というのがあります。人生を終える年になって、自分の「死」を考え、人生の終わりを美しく生きて行こう、とする活動です。中高年世代に広がりつつあります。巷(ちまた)では「終活」の勉強会や講座に人気があり、終活カウンセラーを組織している企業もあります。そして「終活」の代表格は「エンディングノート(終末ノート)」です。
「エンディングノート」は、自分史、思い出などを書きながら、病気や介護が必要になったときの処遇(たとえば延命措置をしてほしい、ほしくないなどの希望)、そして自分の亡きあと、葬儀のしかた、財産分与、家のあり方、家族へのメッセージなどをまとめるノートのことです。

「終活」。一見すばらしい活動のように思えますが、そうとばかりは言えないものがあります。
ひと言でいうと、自分の一生を自分でまとめ、管理してしまう、ということに疑義を感じるのです。財産分与や、家のことなど、言っておかねばならないことはたくさんあるでしょう。しかし、自分の病気や、死ぬときのこと、葬式、墓のことまで、すべてを自分で考え、まとめて書き残してしまう、という作業は、後に残った者たちに、決していいとは思えないのです。それは今の時代がそうさせてしまったといえるからです。
ひとむかし前は大家族制、地域共同体の中でみんな生きていましたから、人が年をとって、病気をして、そして亡くなる、というのは、おたがいさま、あたりまえ、自然のこと、とみんな知っていて、それらを許しあっていました。言いかえると、一人の人が病気をし、亡くなる、という厳粛な事実をまわりの家族、子や孫に至るまで、みんなが見ていて、その結果、「人は許されて生き、許されて死んでいく」ことができたのです。ですから、わざわざ「終活」と言う必要がなく、日常がそのまま「終活」だったのです。
それに対し、いまはちがいます。「死」は、日常でない分、大変なこと、迷惑なこと、と特別視され、亡くなっていく人は、まわりに遠慮しながら、自分ひとりで自分の最期と死とを考え・管理しなければならなくなりました。「許されて死んでいく」ことができなくなったのです。
つまり、死を迎える人は、最後の力をふりしぼって「まわりに迷惑をかけない死に方」を考えるようになります。いきおい「延命措置はしないで」「お葬式は簡単に」「私のことなんか二の次でいいんだよ」などとメッセージを発しながら、その実、そおっと自分のお葬式代を貯めたり、自分のお墓を用意したりします。そしてつねに子や孫に迷惑をかけないように、口数は少なく、つましい、遠慮した生活をすることになります。
こんな人生の終末、なんとも、心がせまく、さびしいじゃありませんか。

そこでほんとうにしあわせな人生の終末とはどんなのでしょうか。
死を目前にして、心に思い煩うことなく、不安も、心配もなく、それこそ安気に堂々と死んでいくことこそ、本望の終末ではありませんか。
そのような終末を迎えるための「終活」を考えていきたいものです。

それではまた次回に。

合 掌

■第79話:2014年11月

ちょっと立ち止まって自分を見直そうじゃないですか

人はいるけど街がない

今の日本の国は、「人々の生活よりも経済」という仕方で、突き進んでいます。人の普段の生活やいのちより国がカネを持つことが大事、というやり方です。それは「家はあるけど家庭がない」「人はいるけど街がない」といわれるように、人と人とのつながりを薄くしていきます。

経済学者の宇沢弘文さんという人

そんな時、朝日新聞の9月27日付の『天声人語』で宇沢弘文(うざわひろふみ)さんという方のことを知りました。
「人間が人間らしく生きられる経済学」を唱え続けた世界的な理論経済学者・宇沢弘文さんが86歳で亡くなった。環境破壊にもの申す文明批評家で、地球を痛め、使い捨てにするような経済活動にきびしい視線を向けた・・・・・
と紹介してありました。また、
宇沢さんは「日本の狭い国土を広く使うには電車の速度を半分に落とせ」とも主張していたそうだ。二つの地域を高速で結べば途中の地域はすたれてしまう。遅くすれば途中駅も人が降りて栄え、つまりは広く使えると。
とも。

人間が経済より大事、という発想

戦後復興をめざして私ども日本人が進めてきた「早く、きれいに、正確に」という効率至上主義の逆発想です。私はこの記事を読んで、宇沢さんのことをもっと知りたくなり調べてみました。
宇沢さんは数学者の道を歩み出したのですが、河上肇の『貧乏物語』を読んで経済学者に転向、「経済よりも人が大事」というスタンスで、世界を股に論陣を張り、自ら身体を張って活動。1997年には文化勲章を受章している人だったのです。
この人を紹介するような本が最近出版され、それを読みました。宇沢さんは言うんですね。「車より自転車や歩く方がいい」「街が魅力あるものになるためには広くてまっすぐな道ではなく、曲がりくねった道がいい」など、人間が優先している発想が次から次へと出てきます。

リニアモーターカー

そこでリニアモーターカーの話です。リニアモーターカーの建設工事が始まることになりました。東京と大阪を1時間で結ぶ超特急電車ですが、80パーセント以上はトンネルだそうです。まさに東京と大阪という大都会を人間を運搬する車両です。途中の町、人びとはどうなるのでしょうか。それに、地下水、森林への悪影響、走行のために使う消費電力は新幹線の3倍とか。そのために原発が数基必要、と試算されています。フクシマを経験しているのに、原発を増やす理由づけにもなりますから、どう考えればいいのでしょうか。

このままいくと 未来を背負う子どもたちは生きていくことに希望が持てなくなります

宇沢さんが「これ以上、地球を痛めてはならない」と言っていることがなぜ通じないのでしょう。地球を痛めて経済至上主義で行くと、いよいよ、未来を背負う子どもたちは生きていくことに希望が持てなくなるし、人間関係がズタズタになっていきます。
仏教は「自分の何たるかをしっかり見つめ、いのちを大切にし、他のいのちを殺したり傷つけたりしてはならない」といっています。
いま、あくせくとした生き方に流されていないか、ちょっと立ち止まって自分を見直そうじゃないですか
少年期にお寺で修業した、という宇沢さんの思想をもっと勉強したい、と思って今回、紹介をいたしました。
それではまた次回に。

合 掌

■第80話:2014年12月

被災地で生活をしている人のことを忘れないで

毎年11月14日に勤まる恵光寺のお十夜法要。一年が終わろうとする実りの秋に勤める浄土宗の報恩の法要です。
今年のお十夜のお説教は岩手県陸前高田市の被災地寺院のご住職・古山敬光さん【写真】にしていただきました。
今回の「恵光寺和尚の法話」は、この古山さんの当日のお話を紹介します。

今年のお十夜のお説教 岩手県の被災地寺院のご住職・古山敬光さん京都から1,100km離れている岩手県は陸前高田市の被災地寺院のご住職・古山敬光さんのお説教です。古山さんは臨済宗妙心寺派の布教師でいらっしゃいます。そして、あの大震災・津波で被災され、身内を亡くされながらも、避難所となったご自坊を中心に、多くの人びとの支援をしてこられた方です。
お説教は震災のそのときの模様のお話から始まりました。

海辺から200mのお寺 津波が襲ったけれど本堂は無事 以後避難所となる海辺から200mの小さな高台にあるお寺のご住職。大地震のあった3月11日午後2時47分、古山ご住職はお寺で大地震に遭遇。地震のあとには津波が来る、ということで避難所に指定されている慈恩寺さんに、車などで緊急避難してきた人が40人。そして地震から20分して津波が押し寄せ、またまた裏山の墓地にみんなで避難。津波は本堂の床下を通り抜け、本堂は無事でした。しかし、避難してきた人たちが載ってきた車は全部流され、寺から海を見ると何もかもがなくなっていた、といいます。この間の津波襲来で家が流され、人が呑み込まれていくその生々しいお話にはみんな固唾をのんで聞き入りました。

仮設に被災者は移ったけれど、毎日、お寺にやってくるのですそれからというもの、お寺は避難所として使われ、4か月間、多い時で80人が共同生活をしたのでした。古山さんはおっしゃいます。
「辛苦をともに分け合いながら避難所で生活していたのが、仮設住宅が建ちだし、次々と転出していきました。ついに最後の人も立ち退いていった後、それはそれは淋しかったです。ところが、そのうち、仮設に移った人がですね、朝になると、お寺にやってきて掃除をして下さるんです。三年以上もたちましたが、やはり朝になったらやって来て掃除をしてくれるんです。その人たちは『仮設住宅では海が見えない。一日いちど、やっぱり海を見ないとねぇ』と言うんです。うれしいですね。」 と。
それで古山さんは境内にみんなが一服できるコーヒーが飲めて休憩できる小屋を建てました。
「私ども被災したものは大変です。悲しいこと、辛いこといっぱいです。たくさんの大事な人やものを失いました。でも全国に方々からいろんなご支援を戴きました。たくさんのものを失いましたが、また多くの大切なものを与えられました。
良寛さんではありませんが『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是れはこれ、災難をのがるゝ妙法にて候』という気持ちです。」

被災地で生活をしている人のことを忘れないでまた古山さんはこうもおっしゃいました。
「いま、少しずつ、復興している、といわれますが、それはまだまだです。三万人の人口だったのが、いま二万人です。おおくの人たちが仮設で暮らしています。人々のつながりは以前のようにはいきません。
どうぞ、みなさま、遠いところではありますが、いちど、被災地、この陸前高田にお越しください。でも遠いですね。遠いから行けない、とおっしゃる方は「いま、この寒い時期、みんなどうしているだろう、どんな年末をすごしているのだろうか、正月はどうするのだろうか」と思いを寄せてください。それが私どもが生きる力になります」 と。
それではまた次回に。

合 掌

■第81話:2015年1月

年の初めに

新年おめでとうございます。今年がみなさまにとって、世界の人々にとっていい年でありますように、と切に願うものでございます。
一休さんの歌に
門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなしというのがあります。門松はいま見なくなりましたが、正月の元旦に家の前などに飾るお正月の祝儀ものです。この歌についてはいろんな言い回しが知られていて、どこまでが一休さんの作か、などいろいろと話題になります。また、一休さん、正月には頭骸骨を竹の先に付けて「ご用心、ご用心」と言いながら家々を回った、という話もあります。
人生を旅に譬えたとき、正月に立てる門松は、人生の旅の一里塚。めでたいと正月を迎えたけれど、その分、わが身は確実に死に向かっているのだよ、と警告をしています。

お釈迦さまのお経に次のようなものがあります。
悪事を働いたため地獄におちた男がいた。地獄で閻魔大王がその男にこう訊ねた。
「おまえは人間世界にいたとき、三人の天使に遭わなかったか」と。すると男は「私はそのような人には遭っていません」とこたえた。
すると大王は「そうか、それなら年老いて腰を曲げ、杖にすがってよぼよぼしている人を見なかったか。」と訊ねた。
「そんな人ならいくらでも見ました」
「お前はその天使を見ながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならない、と思わず、今日の報いを受けるようになった」
このように問答が始まり、大王は、続いて「病人にあったか」「死人にあったか」とたずねた。そして「病人も死人も、人にとっては天使なんだ」と教えた。つまり、「お前は三人の天使を見ながら、その天使にあっていない、という。それは、自分が老いゆくもの、病に伏すもの、死んでゆく身なのに、それに気づかず、善をなさなかったため、今日の報いを受けた」とおっしゃったのです。

お正月に「死」の話をするのはタブーのようですが、新しい年をいい年にしよう、とするのなら、「老」「病」「死」を射程距離に入れて、己れをつねに顧みながら生活していくことだ、と思います。

それではまた次回に。今年もよろしくお願い致します

合 掌

■第82話:2015年2月

今回のイスラム国の人質殺害について

非道・残忍な殺害 2月1日早朝、イスラム国に人質として捕らえられていた後藤健二さんが、殺害される、という恐ろしいニュースに接しました。折しも恵光寺の朝は昨夜来の雪で、実に静かな銀世界を呈していました。この非道なニュースが誤報であってほしい、そう思いながら、雪の静けさに佇んでいると、自然に涙がこぼれて何ともやりきれない気持ちになりました。心から哀悼の合掌をさせて戴きます。
イスラム国は、その前には湯川遥菜さんを殺し、また、この半年で、アメリカ人3人、イギリス人2人、フランス人1人、そしてわが日本人2人、8人を殺害しました。そしてその殺害シーンを動画で配信をする、という残忍卑劣さには言葉もありません。

イスラム教の人びとへの偏見を持たないように 一方、この事件がイスラム教の人びとへの偏見や差別につながらないよう、心していかねばならない、とも思っています。イスラム教はこんな残忍な教えなのだ、と決めてかからないようにいたしましょう。
この2月2日には日本ムスリム協会が「イスラム国」の一連の動きに対し「イスラームの名を騙(かた)るこのような残虐行為は、その教えに反するものであり強く非難する。アッラーは『正当な理由による以外は、アッラーが尊いものとされた生命を奪ってはならない』(夜の旅章33節)と教えておられる」と声明を出しています。
イスラムの国の人びとにとって日本という国は、いつも他国に比べ、はるかに好意的にみられてきているのです。

「断固としてテロに屈せずに対応していく」の姿勢は疑問 シリアやイラクなど中東地域の国々では、これまで欧米の列強に、武器や資金を提供して支配、翻弄されてきました。そんな中、日本は非軍事国として公正に接し、この国々に対して宣戦布告をしない唯一の国、とも言われています。
ところが今回の日本の資金援助の申し出が「対テロ戦争」を掲げる欧米に加担したことを表しましたし、今回の殺害事件で、いよいよ日本はテロ対策、と言って強硬な出方をするでしょう。
しかし、ここからが大事です。
現代イスラム研究センター理事長の宮田律(おさむ)さんは「日本国は『対テロ戦争』を掲げている欧米の動きとは一線を引く必要があります。日本国には、徹底的に対決するだけでない交渉の進め方もあったのではないか、と思います。中東についての理解と、困難に向き合う人々に寄り添う思いを示しながら相手の『情』に訴える方法です。」 と言っています。

中東の国々に対して、武力による報復措置に加担しないように
とくに宗教の世界、なかんずく仏教は「不殺生戒」を言います。そして、報復の思想を持つな、と言います。
怨みは怨みによっては、決してやむことがない。
怨みを捨ててこそやむ、これは永遠の真理(法)である(『ダンマパダ』 5)

「報復」は次の報復を生んでいきます。卑近なところでいえば「仕返し」と呼ばれるものです。されたからし返す、という短絡的な行動は、これまたしてはならないことです。まして「有志連合」に歩調を合わせて武力で報復をする、ということは絶対にしてはなりません。
前述しましたように、中東の国々には世界の列強に支配、翻弄されてきた歴史があります。そんな中で人々はイスラム教を頼って心は平安であるように、と必死で生きて来たはずです。私どもは、時間をかけてでも、中東についての理解と、困難に向き合う人々に寄り添う姿勢をもつことが今、求められている、と思います。

それではまた次回に。合掌。

■第83話:2015年3月

「悪人の私」の認識

仏教の変遷仏教が日本に伝来したのは6世紀中庸。そのあとの飛鳥時代には聖徳太子の仏教精神をもとにした『十七条憲法』、奈良時代には鎮護国家の宗教として、そして平安時代には、貴族たちを中心に来世の浄土に生まれることを願う「念仏信仰」が盛んになります。すさまじい勢いで仏教が広がったことがわかります。
平安末期から鎌倉時代になりますと、政治の混乱、内戦、加えて天災、地震などによる飢饉、疫病、という状況を背景に、仏教改革がつぎつぎと起こります。その代表格が法然上人の「念仏信仰」でした。

法然上人の往生観

では法然上人の「念仏信仰」と、それ以前の平安時代の「念仏信仰」とはどうちがうか。ひと言で申しますと、平安時代の念仏信仰は、いたずらに浄土を憧れるばかりであったのに対し、法然上人以後の「念仏信仰」には深い「己れの罪悪感」が根底にありました。
法然上人は「修行や善根を積むことなどできないもの者(悪人)は、自分の力では浄土に往生はできない。阿弥陀さまはそこをご覧になって、みずからが悪人の救い主になられた」という信心をしお示しになったのです。
法然上人の仏教の真骨頂は「私は悪人だから往生ができる」と言い切ったところにありました。

私、悪人?

では、ほんとうに「私は悪人」と自覚しているでしょうか。仏教には
意(こころ)に三つ 身(からだ)に三つ 口(ことば)に四つの十悪業(じゅうあくごう)
という言葉があります。私どもは「十悪業(じゅうあくごう)」、つまり10の「悪業(あくごう/悪い行い」を毎日し続けている、と示しています。
仏教では、この「悪業」は「(こころ)」「(からだ)」「(ことば)」の三分野におさまる、と考えます。
最初に「(こころ)」がする悪業。それは「貪欲(とんよく/むさぼり、物への執着)」「瞋恚(しんに/うらやみ、怒り)」「愚痴(ぐち/因果の道理に明るくない)」の三つです。
二番目は「(からだ)」でる悪業。これは「殺生(せっしょう/いのちをあやめること)」「偸盗(ちゅうとう/盗むこと)」「邪淫(じゃいん/まちがった男女関係をもつこと」です。
三番目の「(ことば)」。これには四つあって「妄語(もうご/うそをつく、だます)」「綺語(きご/見栄や邪心のため、飾った言葉)」「悪口(あっく/人をさげすんだことば、わるぐち)」「両舌(りょうぜつ/二枚舌)」。

やっぱり私、悪人

この「十悪業」を自分のふだんに生活に照らし合せてみましょう。なるほど、毎日の家庭や人間関係、生活が深刻であればあるほど「悪業なしでは生きていけない自分」に気づくではありませんか。
「悪業なしでは生きていけない自分」ときめつけると情けないこと、とため息が出ますが、だからこそ、阿弥陀さまはこの私を見捨てずにおいでになるのだ、といただくのです。これが「悪人である私」の自覚です。それを日本で示してくださったのが、法然上人とそれ以後の念仏信仰のお祖師さま方なのです。
それではまた次回に。

合掌。

■第84話:2015年4月

《縁》の世界を生きていることを再認識しよう

煩わしいことを排除すると 人と人とのつながりもなくなる  町内会の組織率が低下しています

いまの日本、自治会や町内会に入る人が少なくなってきているといわれています。なるほど、私のまわりでも、町内会に入らないのは役が回ってくるとイヤだから、という人もいます。町内のつきあいは「煩わしい」のです。
いままで町内会活動に参加する理由は「町内や近隣者どうしのつきあい、風習、生活ルールが大事だから」でした。少し前の農家が多い時代では「町内のつきあい」がそのまま人びとの生活の基盤にもなっていたからです。
いま、時代が変わって、少数家族化、生活様式の変化、仕事の変貌などで、町内の風習、生活ルールそのものを守る必要もなくなり、地域の行事、受け継がれてきた文化、冠婚葬祭など、地域全体で執り行ってきたものは「煩わしいこと」とみる人がふえてきました。だれからも文句は言われないという理由で、町内の「つきあい」がうすくなり、人と人との「つながり」がなくなってきました。生活は個人化され、その結果、「人はいるけれど街(コミュニティー)がない」という状況になりました。
しかし、こんな状態、ホントに人としていいのでしょうか。

 わたしどもは《縁》の世界を生きています

人はつながりのなかで生きています。そもそも一切の生きとし生けるものは、単独では絶対に存在しません。あなたがあって私がある、私があってあなたがあります。
仏教では私どもの在りようを「ものはおたがいつながり合って 在(あ)る」と説明します。「つながり」は《縁》ということばで表します。つまり《縁》によって存在するのです。
家庭も街(コミュニティー)も《縁》によって存在します。
わたしどもは、辛いこと、悲しいこと、嬉しいことを経験しますが、そのつど、助け、支えてもらって人のあたたかさがわかり、逆に助け、支えることで、自分の生活位置がわかります。煩わしい、という理由で人と人とのつながりを排除するとあたたかいこころ、しあわせのこころもなくなってしまいます。

 こどもたちに 人に包まれて生きている、つまり《縁》を生きると実感を

子どもについていえば、子どもの心身は家のなかだけで成長発達するのではなく、家族外の人たちとの交流・刺激がとくに成長期には必要です。近所の人、町内の人、なかまなど、地域社会での「つながり」のなかで人間として成長していきます。
子どもたちには、テレビゲームばかりをするのではなく、公園や広場で思いっきり遊び、山や川に親しんでほしいです。家族や地域にいるおじいちゃんやおばあちゃんとの接触もできると理想です。お年寄りの存在は子どもたちにとって、人の病気、死を実際に経験することであり、お年寄りの豊富な生活経験は子どもたちにとって「生きる知恵袋」になるはずです。そこには人に包まれて生きている、つまり《縁》を生きる実感を子どもたちに経験させることになります。
わたしどもがあらためて心しなければならないことは「人は自分ひとりでは生きていない」ということを認識することです。そして、困ったこと、つらいことがあれば、近所、まわりの人たちに「助けて!」と声をかけてもいい環境をつくることです。
恵光寺もささかやですが、そのような街づくりの拠点になれば、と子どものつどいやイベントを行っています。
それではまた次回に。

合掌。

■第85話:2015年5月

「いないいないばあ」「モモちゃん」「龍の子太郎」の作者 松谷みよ子さんが逝去

松谷さんの反戦、反核、平和のねがいを

童話作家の松谷みよ子さんがこの2月28日になくなりました。「いないいないばあ」などの赤ちゃん本シリーズ、「モモちゃん」シリーズの作者で、うなずく方もおられるでしょうし、どこかでこの人の本を読んだり、聞かせてもらったりした人は多いでしょう。

松谷さんの姿勢

松谷さんは日本の膨大な民話を掘り起こす作業を通し、世の中を民衆の視座から、その世の中がかかえる差別、抑圧、貧困などの問題点を作品に反映させ、新しい現代民話を世に出してきました。
とくに有名なのは秋田県や長野県の上田や松本に伝わる民話をベースに作られた「龍の子太郎」です。簡単なあらすじを紹介します。

民話をもとに作られた童話「龍の子太郎」

太郎の母親は太郎をお腹に宿していたときのことです。貧しいがゆえに、村の掟を破った母親は龍になって北の方の沼に身をひそめることになります。龍になった母親は乳の代わりに自分の目玉をくりぬいて太郎にしゃぶらせて、太郎は大きくなります。そのうち、仲良しの娘・あやが鬼にさらわれることもあって、太郎は、あやとお母さんを探す旅に出るのです。太郎は道中、いろんな人たちと出逢って、多くのことを経験して成長していきます。とくに人々の貧しい生活を改善するには安定したコメの収穫が大事で、そのためには広い土地と水が必要、と思い、いろいろと手立てを考えます。最後は、龍の母、あや、そして民衆、みんなが一丸となって、大きな山を砕き、広い平らな土地をつくることに成功します。と同時にそのとき、母親の龍は人間に戻るのです。
というものです。松谷さんはこの作品によって国際アンデルセン賞を受賞しました。

成長至上主義で地域社会が崩壊するいま、松谷さんの作品はとても重要

いま、日本は「人より経済」で、世界の列強をめざして、戦争ができる国になろうとしています。こんな日本の情況にあって、松谷さんは、それはいけないことだ、と訴えてくれています。
『松谷みよ子童話集』を編纂した野上暁さんは「成長至上主義と市場原理で経済大国にのしあがった戦後日本が、地域社会を崩壊させ、さまざまな矛盾を抱え込んでしまった現在、女性や子供や弱者の視座から紡ぎだされた松谷文学には強い啓示性がある。3.11以降の日本を考える上でもきわめて示唆的である」と仰っています。
松谷さんは作品を通じて「カネよりいのちがとうとい」「人と人が信じあってできるつながりほどあたたかくて力強いものはない」「人々のために誠心誠意はたらくことは、自分のしあわせにつながる」というメッセージを送ってくれているのです。それではまた次回に。

合掌。

■第86話:2015年6月

「善人」と「悪人」

あなた「悪人」ですか、「善人」ですか 仏教は自分が「悪人」と認めるところからスタート

仏教の、とくに私ども浄土系の仏教では、この私のことを「善人」「悪人」という分け方を使って考えます。今日はそれを紹介いたします。

湯飲み茶わんを割ってしまった事件 2つのケース
仕事から帰ってきた夫が、玄関の上り框に置いてあった湯飲み茶わんに気がつかずに割ってしまった、という「事件」、2つのケースを紹介します。

― 事件 ケースⅠ ―
あるお家のお話です。一日が終わって夫が仕事から帰ってきました。玄関で靴を脱いで上がろうとすると、その玄関の上り框(かまち)に置いてあった湯飲み茶わんに気がつかず、蹴ってパリンと割ってしまいました。夫は思わず大声で
「誰だ! こんなところに湯飲み茶わんをおいておくやつはっ!」と怒鳴りました。
台所で晩ごはんの用意をしていた妻がエプロンで手を拭きながらでてきて
「何を大きな声を出しているの。あなた、茶わんがあること、どうして見えなかったの?」とこたえます。
「外から帰ってきたところだ、こんなところに茶わんが置いてある、って思わんだろうがっ!」
「あなた、先ほどね、あなたを訪ねて来たお客さんがあって、夫は留守ですけれど、ま、お茶でも、とお出ししたところよ。お帰りになって、時間も時間だし、晩ごはんの用意もしなければならない、と思って、お茶わんの片づけはあとで、と思っただけじゃないのっ! 晩ごはんだって、あなたの晩ごはんよっ」
「おまえ、口ごたえごするのか、茶わんを下げるのにどれだけ時間がかかるんだ、ええ!「あなた、うっかりしているからよ。ちゃんと足もとを見なさいよ」
「ワシは仕事から今帰ったんだぞ、何という言い草だっ」
と激しい口げんかになりました。
そこへとなりの部屋でテレビを見ていた母親が
「あんたがた、玄関でみっともない、何という大げんかをするのよっ、いつもいつも、あなた方のケンカにはうんざりだわ、もう早く、亡くなったおじいさんのところに行きたいよ」
とため息をついた、といいます。

― 事件 ケースⅡ ―
やはり夫が帰宅したとき、玄関に置いてあった湯飲み茶わんを蹴って割ってしまいました。
夫:「しまった。お〜い、ただいま。すまん、ここに茶わんがあるって気がつかなかった、うかつにも蹴って割ってしまった。スマンスマン。」
妻:「あらお帰りなさい。あら、お茶わんね、私が悪いの。ごめんなさい。先ほどね、あなたを訪ねて来たお客さんがあって、夫は留守ですけれど、ま、お茶でも、とお出しして、そのままにしておいてしまったわ。私が悪かったわ、ケガはなかった?」
といっているところへ、となりの部屋でテレビを見ていた母親が出てきて、
母:「あなた方、二人とも何も悪いことないよ。私、ずうっとテレビを見ていたんだけど、お客さんのお湯飲み茶わん、玄関の上り框に置いたままになっているのを知っていたんだよ、息子が疲れて帰ってきて、もしや蹴って割ってしまうかも、と思ったわ。嫁のあなたは台所で忙しくしてくれているし、いちばんヒマな私が、ちょっと気を遣って、そのお茶わんを片付けておいたら、こんなことにならなかったのよ、私がいちばん悪かったのよ。ごめんなさい」
と謝ったといいます。

いかがですか。
【ケースⅠ】は「善人」の集まるお家。夫も、妻も、母も、みんな自分は正しい「善人」で、我を張り、相手が悪い、と言い張る人の集まる家です。
【ケースⅡ】は「悪人」の集まるお家。毎日、人を傷つけたり、裏切ったりしているのに、こうやって自分は生かせてもらっている、力のないこんな私が(ほとけとしか言いようのない)大いなるみ恵みのなかを生きている、もったいないこと、と心底、思っている人の集まる家です。
善人ばかりだと、ケンカが絶えないし、悪人ばかりだとケンカはないのです。
さ、あなたは善人ですが、悪人ですか。胸に手を当ててよ〜く考えてみましょう。

それではまた次回に。

合掌。

■第87話:2015年7月

戦争中の学童疎開児の女性が恵光寺来訪

戦後70年 恵光寺学童疎開のこと

恵光寺が集団疎開児童の生活寮に

この5月23日、五月晴れの日、ひとりの女性が恵光寺をたずねて来られました。「戦争中に学童疎開で市原に来て、ひと月この恵光寺寮で生活をしたものです。いま神戸に住んでおります柏谷満子と申します」と自己紹介をされました。
初対面の柏谷さん、81歳。旧姓を馬場さんといい、桂国民学校6年生のとき、1945年3月24日から4月20日までの一ヶ月間、静市野村の野中国民学校(いまの市原野小学校)に転校、宿舎である恵光寺寮に32人が泊った、その時のおひとりだったのです。私も両親から戦争中、桂からやってきた疎開児童が恵光寺寮で住んでいた、と聞いていましたから、話はだいたい通じました。

引率の太田正二先生

この桂国民学校の疎開児童を引率した先生は太田正二先生(1914~2001)。太田先生は戦後、60年安保からベトナム戦争の時代になると日本人にも戦争が再び身近になり、「二度と教え子を戦場に送るな」という思いから一念発起され、戦争中の学童疎開の記録をまとめて残すことを決心されました。そして、ご自身の疎開記録、残された資料、そして疎開児童の経験記録などを集めて『この子らと共に―学童集団疎開の記録―』(1976年1月/法律文化社)という本を出版されました。恵光寺が疎開児童受け入れの寺だった関係で、私はこの本をご本人から頂戴していました。
太田先生は人情の厚い熱心な教育家で、市教組委員長もされた人です。アララギ派に属して短歌もよくされました。太田先生の当時のお歌に 
母たちの はこぶ故郷の匂いあり ひと時はなやぐ 山寺の寮
父母を 離れし子らよ 今夜より弥陀のみ加護を ただに頼まん
というのがあります。恵光寺にいる子どもたちを見守る先生の目が伝わります。

戦争のできる国になることをとても危惧

柏谷さんは81歳。神戸市在でひとり住まい、戦後も70年、元気なあいだに、と70年前の疎開地訪問を思い立ち、ひとりで来られたのでした。この日、最初、市原野小学校に行かれたのですが、運動会の真っ最中で、それどころではなかったのでひとり恵光寺に来られ、たまたま私がおりましたのでゆっくりお話ができた、という次第です。
柏谷さんは神戸の九条の会のメンバーで宗教はキリスト教だそうですが、持ってこられた朱印帳に当方の恵光寺の奉拝印を捺しました。市原の疎開のお話では、異常な集団疎開、という中で、子どもたちの心が貧しくなったりすることが悲しかった、とおっしゃる一方、水車が回っている風景や水で遊んだこと、畑仕事をしたこと、村の人に親切にしてもらいお風呂に入れてもらって楽しかったこと、など、聞かせてもらいました。
最後は、友だちと自分のみじめな集団疎開の経験から、戦争のできる国になることをとても危惧しておられました。

不思議な出逢いに感謝

柏谷さんは、お年よりも若く見え、すがすがしい方でした。小生、恵光寺にいることで戦後70年経ったいま、こんな得難い出逢いがあるのか、と感激しました。これからも厚誼を続けることを約束してお別れしましたが、いったい、今日の出逢いはどなたの引き合わせだったのだろうか、とほとけさまに訊ねることしきりでありました。
「集団疎開」、フクシマ原発事故のあと、再度、世に出たことばです。戦争中の集団疎開児童は全国で80万人だったそうです。不安な戦争状況下、家族と離れて子どもたちが散り散りばらばらになって経験する心のキズはどんなものだったのか、子どもの将来を考えると、二度とこのような不幸なことがないようにしなければならない、と思いました。

それではまた次回に。

合掌。

ここで京都の学童疎開について京都市教育委員会発行のホームページから引用して紹介しましょう。
太平洋戦争の末期,大都市への空襲が激しくなる中,児童の生命を守るため,国民学校(現在の小学校)3年生以上の児童を農山村や地方都市に移動させる「学童集団疎開」が行われました。京都市でも,昭和20年に入り始めての空襲(1月16日馬町空襲)を受けるなど,戦禍が拡大する中,同年3月から多くの学校で京都府内の市町村への学童集団疎開が行われることになりました。疎開先は地域ごとに京都府下の町村が指定され,宿舎には寺院や教会,旅館などが寮として提供されました。近くの国民学校(小学校)で授業を受け,放課後は畑を耕すなどの労働についていました。
野中国民学校の場合、桂国民学校の児童56名,教員3名を受け入れ、寮母2名,作業員2名が生活の支援をしました。

■第88話:2015年8月

「里山」と私たち

足もとを観よう わたしたちの生き方

猟師・千松信也さんの講演から

毎年「さんがいちはらの」は夏に「納涼講座」を開催しています。今年は7月18日に恵光寺を会場に行われました。 今回の講師は、この洛北で猟師をしている千松信也さんという方でした。お寺で狩猟の話?、と思われた方もあったかもしれませんが、いろいろと示唆に富むお話をしていただきました。
「里山」ってなあに?
まず、千松さんが教えて下さったのは「里山」ということです。
そもそも、私どもは、山にはいり、木を切り出し、畑を作り、田を耕し、そして薪や炭を作って燃料を確保する、という自給自足の生活をしていました。それはそのまま、人と自然とが共生をする「里山」という生活の場を作りました。市原野でも戦後しばらくまではそんな「里山」の生活をしていました。
食べ物でいうと、里山には鳥もいる、イノシシもいる、シカもいる。だから人々は食用の獲物をとって食べたのです。 世の中が便利になって「里山」が消滅
ところが、我が国は、明治以降、近代化の名のもとに富国強兵策がとられ、第二次世界大戦後は復興を旗印に高度経済成長路線を突っ張ってきました。
その結果、燃料は薪炭から石油、石炭、原発にかわり、農産物は外国から輸入する、そして、自然環境が壊され、大規模な開発が当たり前になりました。毎日の生活はスピード化され、時間のかかるものはだめ、非効率なものはだめ、となり、都会は膨張、地方は過疎化してしまいました。何ごともスイッチ一つでできるようになり、便利といえば、そうなのですが、そこにはものごとがかんたんに出来すぎて、ものの本質をみなくても生活ができるようになりました。人は山に入らなくなり「里山」が無くなり、以前、人々が自分の手や足で、時間をかけてやってきた、畑しごとや狩猟をする人は減ってきました。
シカやイノシシは獣害か
最近、シカやイノシシが街に出てきて、田畑を荒らします。人々は、だから、シカやイノシシのことを獣害、と言います。しかし、千松さんはこの「獣害」という言い方を好みません。「里山」がしっかりしていたときはシカやイノシシが街にそれほど出てくることはありませんでした。しかし近年、人間が「里山」を放棄し、山に入らなくなった分、山の生態系が変わり、シカやイノシシが街に出てくるようになった、というのです。人間が山や森を勝手に壊しておいて、その結果シカやイノシシが出てきてそれを獣害、というのはおかしい、という論法です。
「狩猟の肉」と「畜産の肉」との違い
千松さんは猟師ですが、鉄砲を使いません。あくまでも手で作ったワナを使っての猟です。ワナをしかける人の匂いがつくともう獲物は来ません。ですから、獲物がふだん、どんな道を通っているか、子連れか、などの生活、というか動きをしっかり観察して慎重にワナをかけます。獲物がワナにかかった場合、何日も放置すると肉が傷むので、罠をかけると、毎日、ワナを見て回るそうです。そうして獲った獲物は、いたまないように処理して、皮を剥ぎ、肉を取り出し、それぞれに切り分けて冷凍します。撮った獲物は皮から血の一滴までも利用し尽くす、というのが基本姿勢です。ここに「狩猟の肉」と「畜産の肉」との違いがあります。
豚や牛、そして鶏など「畜産の肉」は大規模工場で人工飼料をつかって太らせ、若いあいだに精肉して出荷されます。どこでどのようにして育てられ、殺され、そして精肉されたか、皮は、血は、内臓はどうなったか、などの情報はないまま、食卓にやって私たちはそれを食べます。ですから、私たちは動物のいのちを奪って生きる、という実感がなくなり、この肉はどのようにして、この私の口に運ばれてきたか、という想像力を働かすこともなく、パクパクと肉を食べるわけです。
そこで千松さんはおっしゃるのです。「狩猟をして動物の命を奪うことによって、己れの無力さ、いのちをみる力、自然をみる力、偉大な自然に生かされていること、という感覚が身についた」と。だからこそ「獲った肉は必ず残さず食べること、感謝をしていただくことを大事にしています」と。少し前までの日本人はみんなこうだったのだ、と思います。
今月はこれでおしまい。
また次回、お会いいたしましょう。

■第89話:2015年9月

お彼岸は「仏教週間」

仏教的生活目標をもつようにしましょう

「六波羅蜜行」に一歩ふみいれて

一年のうち、昼夜の長さが同じ日が二回あります。またその日はお日さまが真西に沈む日です。この日のことを秋分の日、春分の日、といいます。
日本では古来、この秋分の日、春分の日を「中日」として、前後三日ずつ、合わせて七日、つまり一週間を「彼岸」と呼んで、行いを慎み、心きよらかに過ごし先祖にお参りをする時期、としました。いわゆる「仏教週間」です。
「彼岸」は「到彼岸」の略で、彼の岸に行く、つまり、悟りの世界に到達すること、仏の世界に生まれることをいいます。仏教では仏になろう、と修行することを菩薩行と呼んでいます。この菩薩行のいちばんポピュラーなのが「六波羅蜜」です。六つのパーラミター(波羅蜜/到彼岸)とは次のとおりです。
① 布施  私心を持たずあたえること
② 持戒  生きる上でのきまりを守ること
③ 忍辱  苦しみや怒りを抑え、耐え忍ぶこと
④ 精進  努力すること
⑤ 禅定  心を安定させること
⑥ 智慧  仏さまのみ心で世間や自分を見ること

「六波羅蜜」は六つの修行、といいましたが、もっと平たく言えば、私どもが心ゆたかに生きるための「六つの仏教的生活目標」です。
この六つの目標を彼岸の七日間、中日をはさんで前後三日ずつ、割り当てるのです。
この秋の彼岸でしたら彼岸の入りは9月20日です。この9月20日は、この「仏教生活目標」の①「布施」を心がけて一日をすごしましょう、ということです。続いて、彼岸の二日目は②「持戒」を、三日目は③「忍辱」を、中日をはさんで、後半は④「精進」を、⑤「禅定」を、そして結願の26日は⑥「智慧」を心がけてその日を過ごしましょう、ということになります。
そこで、たとえば④「精進」の日はどうして過ごすのか、というヒントを全青協の「私たちのねがい」から引用しましょう。
みんなの しあわせのために
いきている人は うつくしい
じぶんのことだけしか かんがえない人は
こころがせまく さびしい
ほとけさまは すべての人が
しあわせになる道を さとられた
ひとのため しゃかいのためにいきる
それがわたしたちの とおといしめい
あたえられた ちからをもって
せいじつに ゆうきをもって
せいいっぱいはたらこう
しめいに いきる 人間となろう
いががてすか。この「ねがい」は子ども向けに書かれていますので平がなが多いのですが、漢字で書けば「使命に生きる人間となろう」です。
ある初老の男性が同じ地区の小学生のために朝の見守りをはじめました。最初は自分の生活リズムや健康のことを考え、老後の「使命」と言い聞かせて始めたのですが、続けていくうちに、地域の人たちから挨拶や、声をかけられるようになり、お礼まで言われるようになりました。それが後押しになって何年も続けるようになりました。そして、今では「この朝の見守りをさせて貰うようになって、何がいちばんよかったか、というと会社人間一筋できて、地域に関わらずに来た私が、年をとってどうなるか、一人ぼっちになるのではないか、と思っていたのに、いろんな方がこんな私に声をかけてくださいます。私はひとりではない、ということをこのごろ思うようになりました。見守りをさせていただいていちばんありがたく思っているのはこの私・本人です」と、おっしゃっています。
お彼岸の六つの生活目標「六波羅蜜」を実践していくことは、人のためになるようでいて、ほんとうは自分の心の縛りから解放されることにつながるのです。
そして、この六つの仏教的生活目標は、別にこの彼岸中だけではないことがわかります。
あらためて、彼岸の一週間を「仏教週間」と見据えて、自分の行動を「六波羅蜜」に照らしてチェックしていきませんか。毎日の生き方が変わる、というものです。いや、変えていこうではありませんか。
ではまた次回に。

■第90話:2015年10月

人は亡くなるとすぐに極楽浄土するのに、なぜ七日ごとの「中陰」をするのですか?

中陰の法要は遺された人のためにある

読者の質問から

ある方からこんな質問を受けました。
人が亡くなるとお葬式をします。そしてそのあと、「中陰(ちゅういん)」といって七日ごとにお参りをし、七・七・四十九日には満中陰のお参りをして、お葬式全体のお勤めは終わります。そこで質問です。浄土宗では、人は亡くなるとすぐに極楽浄土するのに、なぜ七日ごとの「中陰」をするのですか」
と。そこで今日は、そのことについてお話をいたします。

(1)中陰の考え方について
もともと、人は生死をくりかえし、生まれてはちがうところに生まれ、また生まれ変わる、という変化をする、という考え方がありました。その過程を、死有(しう)・中有(ちゅうう)・生有(しょうう)・本有(ほんぬ)の「四有(しう)」で表すところからきています。とくに中有、これが「中陰」のことですが、人が亡くなると、ほとけさまの国に生まれるための準備期間として儀礼的に重視されたようです。
それによりますと、亡くなった人は最初は身体も小さくさまよって不安定、ということになっています。そして食べ物も食香(じっこう)といって、お香が主食になるので、七日七日にみんなが相集い、香を焚いたり、読経したりして、亡くなった人を浄土に生まれさせるようにする、という考えが中陰参りのかたちを作ってきた、と考えられます。
七日、七日の数え方は七日を七回くりかえすことで満数に到る、というインドの七進法の数え方によるものです。

(2)浄土教での中陰の考え方について 「往生」に二種類
浄土宗、とくにわが西山派では、人がほとけさまの国に生まれることを「往生」といいますが、その「往生」には『即便往生(そくべんおうじょう)』と『当得往生(とうとくおうじょう)』との二種類がある、とします。つまり、人がいま生きていながら、生かせていただいている、ということに目覚めて感謝し、念仏の生活をすることを『即便往生』といい、その延長上、結果として亡くなる瞬間には阿弥陀さまが迎えに来て下さる『当得往生』がある、とするのです。
いずれにしましても、往生は私の力でするものではなく、阿弥陀さまのお慈悲によって往生させて頂く、というのが基本です。

中陰の法要の意義は遺された私どもにあります
では、最初の「人の往生は最初から確立しているのだから、七日ごとの中陰のお勤めはなくてもいいのではないか」というお訊ねですが、答えは質問者のとおりです。
実は、中陰の法要の意義は遺された私どもにあるのです。遺族は「中陰」という作法を通じて「往生」の何たるかを知る勝縁を戴くのです。(ここでお坊さんはその勝縁を作る役目が課せられていますからとても重要な立場にあります)
中陰のお参りを繰り返し行うことによって、人は「仏さまに救われている」という心を得る門口に立つのです。中陰法要はたしかに煩わしいです。年回法要も同じでしょう。法要をするために人寄せ、接待、饗応(財施)をするわけですから。
中陰参りは「亡くなった方が自分の力で極楽に生まれようとしているから、残った私どももその手助けをして差し上げよう」といってするものではありません。
そうではなく「この亡くなった人は、み仏の、われわれを救おうとするお慈悲の力(これを本願といいます)で、極楽浄土に生ませされていただく身なのだ」と確証していく過程こそが中陰のおつとめなのです。そして、そのお勤めをくりかえしていくうちに、こんどは、この私も、同じように「ほとけさまのお慈悲によって、生きていながら仏さまのお救いに与(あずか)っているのだ、即便往生の身だ、と気づいて行くことです。そして、いずれ「死」を迎えることになりますが、その時は、日ごろ蓄積してきた即便往生の信心により、まさしく「当得往生」をさせていただく身だ、と喜んで生きる日暮しができるのようになるのです。
もういちど申します。中陰の法要の意義は遺された私どもにあるのです。
また次回、お会いいたしましょう。

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