恵光寺 和尚の法話

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第106話~第120話  第121話~第135話

 

恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第61話:2013年5月

親しみやすく、生きる力になる『法句経』

「お経」はお釈迦さま(紀元前5世紀~4世紀)が生涯をかけて説いてまわられた教えを、後世の人たちが集まって協議し、編集をし、文字に起こして作り上げたものです。具体的には、編集会議では、各々が「私はこのように聞いています」と言いながら、聞き伝えられておぼえている内容を発表し合い、それをまとめてお経が作られていきました。
ですから、どんな「お経」でも、その冒頭は「如是我聞(にょぜがもん)」、つまり「私はこのように聞いています」という意味の文句で始まります。

さて、お釈迦さまの説かれたお経を書き写して心の修養をする「写経会」があります。
恵光寺でも毎月第2土曜日の午後2時、「写経と法話の会」をしています。恵光寺では、たくさんある「お経」の中でも『法句経』を写しています。
そこで今回は『法句経』について紹介いたしましょう。

『法句経』は、お釈迦さまが平素、口癖のように言われた言葉を聞き手の人たちが歌のようにして憶え、それらを基に、紀元前3世紀らか紀元後2世紀までの間、つまりほかのお経に比べてかなり早い時期に編纂されたものです。その分、人間・釈尊の、生き方、生きる姿勢が、その言葉を通じてかなり生々しく伝わってきます。
『法句経』は423の短い詩句でできていて、26章に分けられ、それぞれ「はげみ」「こころ」「おろかびと」「かしこきひと」「ただしさ」「あしきわざ」「あいよく」などのタイトルが付けられています。古来「仏教の論語」とよばれるように、短い詩句でできていながら、大事なことが宝石のようにちりばめられています。
『法句経』はお経ですから、宗教的、哲学的な徳目が多く出てきます。しかしそれらは頭で考える内容ではなく実践的な内容です。また『法句経』にはいろんな種類の人が出てきますが、それだけではありません。花、鳥、動物などの身近なものがお経の中で譬え話として使われています。お釈迦さまの自然の様子の観察力と描写力には驚きの連続です。
いまの大変な時代であるからこそ、この人間・釈尊の単刀直入のおことばはよく心に響いてまいります。
最後に『法句経』からひとつ、第63番を紹介いたします。

わが愚かさを悲しむ人あり。この人、すでに愚者にあらず。
自らを知らずして賢しと称するは愚中の愚なり。 

それではまた次回に

合 掌

■第62話:2013年6月

「父の日」に

6月16日は父の日です。6月の第3日曜日が父の日になったのは次のようないきさつがあります。
いまから100年前のこと。アメリカはワシントン州の一女性が、自分の父親への感謝の気持ちを表そうと、自分が通う教会の牧師に頼んで「父の日」を祝う礼拝をしてもらいました。その日が6月の第3日曜日だったので、以後、それが「父の日」となり、1972年にはアメリカの国民の祝日となりました。
世界の多くの国が、父の日は6月の第3日曜日ですが、そうではない国もたくさんあります。いずれにしても「母の日」同様、父に感謝するる日となりました。

ここで「父」の漢字のもととなった姿は何か、お話をいたしましょう。その前に「母」という字を説明いたしましょう。「母」は「女」という字からきています。「女」だけでは「母」になれません。「女」が「母」になるためには子どもを産んで授乳しなければなりません。その授乳の姿、つまり、「女」という字にお乳を二つ、上と下にひ とつずつあててやると「母」という字になります。母は子に乳をやり、守り育てる姿なんですねえ。
これに対し「父」はどうでしょうか。1画目の「ノ」は石を表し、手に石をも っている人を現しています。それが「父」という字です。父は石で獲物を捕ったり、敵を追いやったりする、そんな家族を守る姿なのです。
私どもはこのような姿の「父」や「母」に育ててもらってきました。

ここで私ごとです。
私は小さいとき、お寺の子どもであることをとてもイヤに思っていました。貧しい小寺の子、それに父親は病気で伏せていることが多く、その分、 小うるさく注文をつけたりしたからでしょう。そのうちこの粗末な寺をなんとか建て直したいと決め、24歳で結婚、坊さんに専念し、それなりのお寺のことをするようになりました。
だいぶ年が経ってからのあるとき「こんなことをさせてもらえる身、というのはなんてしあわせなことだろう」と思うことがありました。それで父親の顔をそうっと見てみると、相変わらずの病身顔です。そのとき、「ああ、この父親のおかげで今の私がある」と思ったのです。
その父親も先月十七回忌を勤めました。
今となれば「この父親はこの私を生むためにこの世に出給うたのではなかったか」と心に決め、それでひとり合掌をするのです。
父の日にあたり、「父」のお話でした。

それではまた次回に。

合 掌

■第63話:2013年7月

「成長戦略」と「少欲知足」 

仏教は「人を苦しめるな」毎年夏になると沖縄、ヒロシマ・ナガサキ原爆、終戦のことを思い、心が痛みます。過去に、戦争という人間の愚かな行為が何十万、何百万の人を死なせてしまった、という事実を思うからです。
人を苦しめる愚かな行為は断固としてしてはならない、というのが仏教の教えです。だから仏教者は戦争に反対します。
「成長戦略」というもの今、日本は原発の再開をしようとしいています。フクシマなんか済んでしまったかのようにです。福島では、放射能禍で多くの人たちが生活苦や健康不安の毎日をすごしています。故郷を離れた人も多く、まだ帰れていません。
フクシマを経験して、私どもは脱原発を考え始め、原発に頼らない発電を真剣に進めようとしています。にもかかわらず、国はムリにでも原発を再稼動しようとしています。それだけではありません。いま、海外に原発を売りこむ商売も強引に進めています。これは、金儲けさえできれば今の苦しんでいる日本人をしあわせにする、とするアベノミクスの「成長戦略」という国の方針によるものです。
でもほんとうにそうでしょうか。どんな形でもいい、お金を儲けさえすれば、いまの日本の人びとはしあわせになるのでしょうか。
しあわせ度がブータンの指針インドとチベットに挟まれたヒマラヤ山脈南麓にあるブータンは人口70万人、日本の九州くらいの大きさの仏教国です。この国は「国民総幸福量」を国の指針とし、国民の精神的な豊かさがいちばん大事、としています。これは日本のように「国民総生産量」、つまり経済的、金銭的・物質的な状態を高めるのが国民の豊かさだ、とする考え方とは違う考え方です。やはり仏教国です。
「老松」の太田さんのご意見京都新聞に「現代のことば」というコラムがありますが、先日、菓子司「老松(おいまつ)」のご主人である太田達(とおる)さんが「成長戦略は必要か」という文章を寄せておられました。太田さんはイタリア滞在の経験から「外国では茶に代表される日本の伝統文化を披露すると高く評価されるのに、日本の国はこういうことにお金をつぎ込まない、いま日本にとって大事なのは学問、芸術、文化の方が経済成長より重大な問題だ」と言っておられます。全く同感です。
高度経済成長後の社会のひずみ戦後、われわれは高度経済成長が、日本の復興の道であると血道をあげてきました。その結果、世界から「エコノミックアニマル」とよばれ、表面的な生活はとても便利になりましたが、その反面、家族がバラバラになり、孤独、いじめ、自死など、いまの私たちの生活はとても寂しいものになってきました。
「成長戦略」から「少欲知足」にこう考えてくると、われわれは「金儲け」かいちばん、という姿勢から、金儲けよりも大事な、人と人とがおたがい手をたずさえて生活をする「共生き」の姿勢に変えていかねばなりません。そのために仏教の思想である「少欲知足」を実践していくべきです。
「少欲知足」は字のとおり、欲を少なくして足るを知る、ということですが、ひとつのものを分け合って、おたがいがよろこびあう、ということであり、つらい思いをしているあなたのことを考えて、私一人が勝手な生き方をしない、という寄り添いの生き方をいいます。
いまこそ、生きる姿勢を「成長戦略」から「少欲知足」に変えていくべきです。 
  それではまた次回。

合 掌

■第64話:2013年8月

盂蘭盆と「五観の偈」

「お盆」は亡き人へ食事を差し上げる作法京都では「お精霊(しょうらい)さん」と呼んでお盆にお給仕をします
いよいよお盆です。
お盆という言葉はインドの「ウラボン(盂蘭盆)」という言葉からきています。「ウラボン」は、少し前までは「倒懸(とうけん)」と訳され、逆さに吊るされた苦しみ、と教えられてきました。しかし、いまの研究では、「供養をするためのお盆」を表したものが妥当、と言われています。
日本では亡くなった人たちをこの時期にお迎えし、食べ物でお供養をし、それが終わればまた本国にお送りする、という一年に一度のお盆の行事があり、京都では「お精霊(しょうらい)さん」とよんでいろんな食事のメニューを用意してお供養をします。
さて、このお盆のお精霊さんのお供物ですが、このごろは便利になりすぎ、手をかけて迎え団子、そうめん、ぼた餅、ヒジキなどの精進物をお供えする、ということは少なくなってしまいました。生活が便利になればなるほど、ゆたかなこころが無くなっていく気がいたします。さみしいことです。せめて子どもたちへの心の教育、と思って、お精霊さんにお供えをして手を合わせる、ということをしたいものですね。

日本の国は世界一の残飯大国
食事というと、いまの日本では、いつでも、どこでも、好きな食べ物がすぐに手に入るほど便利になりました。しかし、専門家によりますと、好きな食べ物がすぐに手に入るのは地球規模でいうと全世界の20%だそうです。そして恐るべきことに、私たち日本人は年間 5600万トンの食糧を輸入しながら、その3分の1を捨てていて、また、その半分以上の1000万トンが家庭から捨てられています。その捨てている分を途上国にまわせば5000万人の人が食料にありつけるそうです。私たちの国・日本は世界一の残飯大国です。

「モッタイナイ」と「五観の偈」このような過剰経済や環境問題を考えるとき、以前、世界語になった「モッタイナイ」という言葉をかみしめたいものです。「モッタイナイ」は日本人が目指す食の文化と生活を端的に表したものです。
仏教寺院ではどの宗派も使うのですが、食事に臨んで唱える「五観の偈(ごかんのげ)」があります。意訳すると次のようになります。
1.この食事がどんな材料で、どのようにしてできたか、目の前に来るまでの幾多の人々の働きに感謝をして戴こう
2.自分の行いがこの食を頂くに価するものであるかどうか反省して戴こう
3.好き嫌いを言わずに戴くことは「むさぼり、いかり、ねたみ」の心を抑える、と思って戴こう
4.食は身体の健康をたもつ薬と心得て戴こう
5.円満な人格を形成するためにこの食事を戴こう

 毎度の食事をこのような心構えで戴くと、食事そのものがとても大事なものになります。
それではまた次回。いいお盆をお過ごしください。
岸野亮淳 拝

合 掌

■第65話:2013年9月

地球を壊していいのか 仏教者のねがい

「今こそ祈り、行動を」と半田孝淳天台座主 この8月に比叡山で「世界平和祈りの集い」

毎年8月4日に比叡山の延暦寺で「比叡山宗教サミット・世界平和祈りの集い」が行われます。今年で26年目です。神道、仏教、キリスト教、新宗連、など日本のほとんどの宗教団体の代表に加え、世界からイスラム教、諸宗教、ローマ教皇庁の代表らも加わり、約千人の人たちが、世界平和の鐘を鳴らし、黙祷し、世界平和の祈りを捧げました。 「世界平和祈りの集い」式典の中で半田孝淳天台座主が平和祈願文を読み上げられました。そのなかで半田座主はこう訴えられました。

「人類は『力』による文明に価値を見いだし、他民族を武力で制圧し、利便性と物質的発展を追求し、自然を征服することさえ正義として核兵器開発までに至ってしまった。ついには人類の我意が、あらゆる生命体を育んでくれる地球を破壊に導く。今こそ、全ての人々がお互いに助け合い、手を取り、宗教を超え、宗派を超えて祈り、行動を」と。

これは一人半田座主の個人のおことばではなく、仏教者の、いや宗教をよりどころとして生きる人々の共通のねがいであります。少なくとも私ども仏教者は、このねがいを自分に引き比べて真剣に考えるべきことがらです。

自然と共生して生きる人間 自然と共生して平和をつくる努力を

人間は自然を征服できる、という思いあがりはもってのほかで、自然と共生して生きていることを心に強くきざみこみなさい、人間だけが好き勝手に「欲」のままに生きていくと地球を破壊に導く、と警鐘を鳴らしておられます。
仏教は、宇宙の法則の中に、この私がある、それも単にあるのではなく、逆に宇宙の構成分子のひとつとしてかけがいのない在り方としてここに在る、ということをいいます。水、土、木など自然のすべてのものとこの私との間柄も、そのように説明します。つまり「あなたがいて私がある、私があってあなたがいる」「あなたがいなかったら私はいないし、私がいなかったらあなたはいない」という「相互依存」を説きます。仏教では「縁起」といいます。
この「縁起の法則」を生きている以上、私どもは「欲」を抑えて、分け合う、足るを知る、という生き方をしなければなりません。「少欲知足」の生き方です。
原発も、戦争も、この「我欲」のなせるものですが、いまの世の中、「欲」を抑えることをしないでいけば、それこそ、地球破壊の道を突き進むことになります。
私どもは真剣に生き方を変え、自然と共生し、平和をつくる行動をしなければならないのです。
それではまた次回。いいお盆をお過ごしください。
岸野亮淳 拝

合 掌

■第66話:2013年10月

「十悪」ということ

己れの悪い行いが己れを苦しめる

仏教では私たちがやってしまう悪い行い、これを「悪業(あくごう)」とよびますが、十の種類に分けて説明します。これを「十悪」とよんでいます。

①殺生(もののいのちを奪う行為)
②偸盗(ぬすみの行為)
③邪婬(男女間の道にはずれた行為)
④妄語(うそいつわりの言葉)
⑤両舌(二枚舌、人を仲たがいさせてしまう言葉)
⑥悪口(人を悪く言うこと、悪態をつく言葉)
⑦綺語(本心からではないかざった言葉)
⑧貪欲(むさぼりの心)
⑨瞋恚(いかりの心)
⑩愚痴(おろかで行き届かない心)

この十種類の悪い行いは仏教教団ではしてはならないこと、と位置づけられています。

では「悪い行い」とは何に対して悪いのでしょうか。相手の人権を無視し、相手を悩まし、相手を傷つけるからいけない、と「相手」に対して悪い、と思われがちです。しかし、それだけではありません。これらは「己れ」に対して悪いのです。
悪い行いを「相手」にしてしまったため、己れが悩み、己れを責め、己れが苦しまねばならなくなってしまうからです。 たとえば④の「妄語(うそいつわりの言葉))。「うその上塗り という言い方があります。己れのウソを正当化するためうその上にさらにウソをつき、ますます辻褄(つじつま)が合わなくなって、最終的には己れが苦しむ、ということです。
私は小さいとき、ウソをつくと親に「ウソつきはどろぼうの始まり」と言われました。「ウソつきはどろぼうの始まり とは、平気でウソをつくようになると、悪いという意識がなくなり、そのうち盗みも悪いことだと思わなくなる、という戒めの言葉ですね。
さてこの「十悪」、十の悪業(あくごう)ですが、「身、口、意(しん・く・い)の三業(さんごう)」に区分して説明されています。つまり最初の①~③の三つは身(からだ)がすること、中の④~⑦の四つは口(言葉)がすること、最後の⑧~⑩の三つは心(意)がすること、の三区分です。
十のうち「言葉の悪業」は四つありますね。仏教は言葉が作る悪業をとても注目します。もう一度見てみますと ④妄語(うそいつわりの言葉)、⑤両舌(二枚舌、人を仲たがいさせてしまう言葉)⑥悪口(人を悪く言うこと、悪態をつく言葉)⑦綺語(本心からではないかざった言葉)。
これら「言葉の悪業」は目に見えないし、水に流せばおしまい、忘れてしまった、で済ませがちです。しかし、よくよく考えると、いったん発したそのような種類のことばですが、あとで、あんなこと言わねばよかった、と後悔してしまうことがありますね。「覆水盆に返らず」の思いになります。そして、そんな言葉を聞いた相手は石に刻んだようにしっかりと憶えているものです。これは逆に自分が言われた側の立場だ、とするとそれはよくわかるでしょう。
相手には「言葉の悪業」はしないでおこうと思う、そういう生き方が、己れの心を安らかにすることにつながるのです。
岸野亮淳 拝

合 掌

■第67話:2013年11月

己れの内面を見る力・己が非を「天」に謝する心 これが大事

育てたい「己れの内面を見る力」 私どもは人に対し、「してはならないこと」はすぐ目につき、すぐに相手を注意したり、叱ったりしてしまいますが、そんなに私どもは偉いのでしょうか。
宗教、とくに仏教では注意する側、叱る側が「してはならないことをしてしまう自分」に気づくことを重視します。それは「己れの内面を見る力」です。

青山俊菫老師のお話 青山俊菫老師のご講話に次のようなお話があります。
『金沢のとあるお寺にとても有名な幽霊の絵を見に行った二人のおばあちゃんのお話です。幽霊はだいたい大変うらめしい恨み辛みの眼です。その幽霊の絵を二人が見ていたんです。すると一人のおばあちゃんが「この幽霊の眼、うちの嫁の眼だ」と言うんです。恨み辛みの眼が家の嫁さんの眼に見えてしまったわけですね。すると、もう一人のおばあちゃんは「私、あんな目で嫁を見ていたかな」と呟いた、と言うのです。この話が忘れられないんですよ』と。
この二人のおばあちゃんの対照は実にみごとです。後のおばあちゃんの見方はなかなかできませんが、真似してみたい、と思いませんか。このお話でわかるのは、人に「己れの内面を見る力」があるかないか、ということであります。

見えない何かが見ている、という心を ここでもう一つ。人との関係を考えるとき、そこに「天」を加えてほしいのです。
「天」は見えない力、人智の及ばない力、宇宙の真理、自然の大いなる力、ということです。少し前までは、親などから「あなたのこと、お天道さまが見ているよ」と言われたものです。そういう「天」です。

「天」の存在を生き方に据えた人 明治時代に内村鑑三という人がいました。この人はキリスト者ですが、日本の国をどうすればいいかと腐心し、近代日本の思想界に大きな影響を与えた人です。この内村鑑三が『代表的日本人』という英文の書物を著し、外国の人に日本の人たちの心意気を紹介していますが、次の五人の日本人が代表者として述べられています。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、そして日蓮です。この五人の日本人に共通しているのは、人は上も下もない、平等である、という信念があること、そして「天」の存在を生き方の中においたことです。
その中で、たとえば二宮尊徳。小田原藩と藩の村民のために領地の収穫高をあげる施策を実施しますが、村民たちの抵抗に遭いうまくいきません。それで尊徳は、自ら成田新勝寺に参籠し「わが誠意の不足を天に罰してもらう」と、二十一日間の断食をします。村人を責めるのではなく、己れの非を天に申し開く尊徳の姿に村民たちも自分たちの非を悟り、尊徳の目指した事業を完遂しました。

見えないものに見守られている、と知るとこころゆたかになり 「天」、それは「仏さま」「神さま」とも呼べますし、「宇宙の大法則」でありますが、そういう大いなるものに向かい合っていく生活をしていくと、小さな自分に気づき、見守られ生かされている自分に出逢う、つまり「己れの内面」に気づかせて戴いていくわけです。その結果、感動する心が生まれ、人を許す心が生まれ、また、すなおに詫びる心が生じてくる、そういうことだろう、と思います。
ではまた次回に。

合 掌

■第68話:2013年12月

特定秘密保護法は仏教の精神に反します

私ども仏教者は、戦争と国民統制につながるこの「特定秘密保護法」の廃止を訴えます 「特定秘密保護法案」が数の論理により、国会で承認されてしまいました。
私どもは戦争には反対です。そして力ずくで人を抑えることも反対です。今回の「特定秘密保護法」は、今までとちがって「秘密」は何か、とくに「軍事に関する秘密」を国会に諮らなくても政府の見解ひとつで決めることができる点です。これはその後ろに集団自衛権の行使が目論まれています。龍谷大学の村井敏邦先生は「この法律は軍事法律であり、秘密を漏らしたり、聞き出したりして罪に問われた人は、秘密が何か分からないまま裁判にかけられ、裁判官も秘密の内容を知らないまま判決を下す。これは暗黒裁判です」(京都新聞)とおっしゃっています。
時の政府の思いで人々を簡単に監視・抑えることができ、戦争ができる国になる、というのはとても恐ろしいことです。

戦争は相手を傷つけ、そして人を殺します。それを仏教では「殺生戒」といってつよく戒めます。「殺生」がいけない理由は「いのちの尊厳」「人格」を否定することだからだけではありません。人を傷つけることによって、自分の生き方が自由でなくなる、自分自身が自分でなくなってしまうからです。
仏教は、ふだんから己れの中にひそんでいる「悪」を出さないようにする生き方がしあわせに繋がる、と教えます。
では己れの中にひそんでいる「悪」はどのような形で出るか、それは私の「行動」・「言葉」・「心」、この三つの姿(これを「身・口・意の三業(しん・く・いのさんごう)」といいます)に出てきます。「行動悪」の最たるものは「暴力」「殺生」です。「言葉の悪」は自分自身の正当性を主張するためにする「ウソ」「二枚舌」「悪口」「おべっか」のことです。「心の悪」は「貪りの心」や「怒り・腹立ちの心」です。
くりかえしますが、「悪」のいけない理由は、自分が作る「悪」は人を傷つけ、そして自分をも苦しめるからです。

いま日本の政府は、経済危機から脱却しよう、と「成長戦略」路線を進めています。国の経済を上向きにするために、恐ろしさは百もわかっているのに、原発を海外に売ろうとまでしています。「今の日本にとって大事なのは、国民の幸福や安全よりカネ!」というわけです。そして、アメリカの軍事の力で世界に緊張関係を作っていって経済侵略を進めていこうとしています。そんな中で出てきたのが今回の「特定秘密保護法」です。ですからこの法令は軍事法令です。平和をなくしていく法令です。
しかし、ここで猛反省しなければならないのは私どもの姿勢です。世界の人々を力ずくで抑え、自分たちだけがよければいい、という発想が政府にありますが、それを許したのは私たちだからです。ブータンという国は「国にとって大事なのは、経済成長より、国民の幸福度だ」と言っています。
この間、日本人の生活は便利で楽になりましたが、それとは反対に失ったものはどれだけありますか。原発で山河が汚れて住めなくなり、人々の人間関係は薄らぎ、子育ての環境は劣化し、生きる喜びを心底味わう機会が少なくなってしまった、そんなことを許した責任の一端は安楽な生活を貪ってきた私どもにもあります。

私ども自身の生活姿勢を猛反省し、あらためてこの法令の廃止を訴えたいと思います。
ではまた次回に。

合 掌

■第69話:2014年1月

人は「死にゆく人」を生きている

門松や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
新年おめでとうございます。正月早々、こんな歌で申し訳ありませんが、これ、一休さんの歌、といわれているものです。正月はめでたいけど、正月が来るたびに、その分、死に近づいている、用心、用心、ということです。

死にゆく人と医療側との関係は「医療側と患者」という関係ではなく「人と人との関係」。

ここに一老人がある、とします。体力が減衰し、栄養を点滴で入れています。口から食物を少しでも入れるといいのですが、病院側は誤嚥による肺炎を恐れて、中心静脈から高カロリーの栄養を入れています。本人は「口から何か食べたい」と言います。でも、医療側は異変のないことを優先しますから、誤嚥、肺炎、感染症などに罹らないよう、食事は口から食べさせないのが普通であるわけです。
口から何も摂取できないで延命をしている、というのは、はたしてどこまでしあわせなことなんでしょうか。

私は先般、近江八幡にあるヴォーリズ記念病院のホスピス長、細井順先生のお話を聞かせて戴きました。細井先生は、亡くなっていく人の「いのちの尊厳」をどれだけ医療側の人が考え、受け取ろうとしているか、にずいぶん心を砕いておられます。
細井先生のヴォーリズ病院ホスピス棟での、死に行く人たちと医療を追跡したドキュメントが『いのちがいちばん輝く日』という映画になって全国に出回っています。この映画の主人公は細井先生であるわけですが、実際の主人公はホスピスで亡くなっていく人その人であり、その亡くなっていく人の「いのちの尊厳」、つまり「いのちのいちばん輝く時」を演出するのは家族、周りの人、そしてホスピスの医療者なのです。
細井先生はお話の中で、医療側としての心構えをいくつか挙げておられました。例えば「医者は患者の気持ちに寄り添う、患者の声を聞く、患者の弱音を聞く、のが基本的立場」である、とか「患者とその家族の希望を最優先にする」「患者の身体的苦痛を除去することのみが医療側の全てではない」という話もありました。そして「人生の流れの中で自分のこととしていのちを考える」「死にゆく人から学ぶ」ということもおっしゃっていました。
実際私もその映画を観ました。その中で登場する死にゆく人、数人いるのですが、そのうちのひとり、高校の音楽の先生だった男性は、末期がんで体が動かなくなっていながら、東京にいる息子の初めての子どもの誕生を聞いて、ぜひともその子の顔を見て人生を終わりたいといいます。家族もそうさせてやりたいと思います。そこで医療スタッフは家族と協議をしながら、新幹線に寝台を運びいれ、寝たまま移動し、劇的な孫との初対面を実現します。そして間も亡くなります。後、家族たちみんな、満足して医療側に感謝をしている姿を映画は映しています。
やはり死にゆく人と医療側との関係はこのようにお互いが「人と人との関係」が基本で、「医療側と患者」という関係ではないのですね。そもそも「患者」という呼び方をしないで「死にゆく人」といういい方は一般的にはよくないように思われますが、考えてみればわれわれはみんな「死にゆく人」なのです。医療対象としての人、つまり「患者」という見方から、全人格を表現する「死にゆく人」(死はこれはみんな平等ですからこう呼ぶ方が適切だということもいえます)として人を見る大事さがここにはあります。
ですから、医療側だけを責めるだけでなく、私たちがどう人のいのちを、終末をどうみていくか、そのしっかりとした考え方と態度とが必要です。
やはり、「門松や、冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」はお正月を迎える私たちには大事な歌なんですね。
ではまた次回に。

合 掌

■第70話:2014年2月

「死」 私ひとりだけがさびしく死ぬのか

お釈迦さまの最期に学ぶ

2月15日は仏教の祖・お釈迦さまが80歳で亡くなられた日です。いまから2500年ほど前、インドでのことです。

お釈迦さまが亡くなられたことを「涅槃(ねはん)」といいます。この言葉はインド語の「ニルヴァーナ」を音訳したもので、その「ニルヴァーナ」は「燃え盛る炎を消して静かになった状態」という意味です。煩悩の火を消して、知慧が完成した

「悟りの境地 ]

のことをいいます。

古来、われわれは、お悟りを開くことと、お釈迦さまが亡くなられたことを同じ言葉で使ってきたのです。

苦しいこと、辛いこと、悲しいこと、嫌なこと、いろんなことを経験しながら生きている私たちが、その辛いことなどから抜け出すこと、そういう境涯を「ニルヴァーナ」と呼ぶことができると思います。文化勲章を受賞した中村元という仏教学者はこの「ニルヴァーナ」を今の時代にあわせて「心の安らぎ」と置き換えておられます。

私どもの生きる目的は、辛い世の中に生きて生きるからこそ、この「ニルヴァーナ」、「心の安らぎ」を得ようとする、その営みである、ということができます。

実際、お釈迦さまがお亡くなりになるときの様子を伝える『大般涅槃経』には次のようなシーンがあります。80歳で最後の旅を覚悟されたお釈迦さまは、いつものとおり、弟子・アーナンダを伴って出発をされ、あるときは腰をさすりながら、あるときは杖を頼りに、喉の渇きに苦しみながら、それでもいろんな人々を教化して旅を続けていかれました。そして、その途中、とうとう最期のときが来るのです。

お釈迦さまが、病重く、横になっているとき、常随の弟子・アーナンダはお釈迦さまの背後にいて敷物によりかかって、涙を流して泣いていた。その有様を見てお釈迦さまは次のように教えた。
『やめよ、アーナンダよ。悲しむな、嘆くな。アーナンダよ、私はかつてこのように説いたではないか。すべての愛するもの、好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、作られ、破壊されるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ、かかることわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、 身体と言葉と心の行為によって、向上し、来たれる人(お釈迦さま)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげむことを行え。速かに、汚れのないものとなるだろう。』と》(中村元訳)

お釈迦さまは、生きることに執着をする生き方は、「心の安らぎ」にはつながらない、生きとし生けるものはわがいのちを「死にゆく命」として正しく見ることこそ「心の安らぎ」を得ることになる、と、やさしくアーナンダにお説教をされます。これがお釈迦さまの最後の説法なのです。

先月、この欄でヴォーリズ記念病院ホスピス長の細井順医師のことを紹介いたしました。細井先生はホスピスのお医者さんとして毎日のように亡くなっていく人を見ておられるのです。そういう環境の中で、細井先生は、その「死にゆく人」から、
「自分も死にゆく人」
であることを学び、「死」と「生」がつながっていることを学ばせてもらっている、とおっしゃっていました。ですから細井先生は、ホスピス棟に入ってこられた方を看取る対象者、つまり「患者」とは呼ばず、生き死にを教えてくださる「死にゆく人」である、と位置づけておられるように思うのです。

人は、場所や時間は別々に亡くなるのですが、天が与えたもうた揺るぎのない「死」というものをみんなが平等に戴くことができれば、人はまさに別々に死んでいくのではないのです。
ここが生きる上で、肝心なこと、と思うのです。       また次回に。

合 掌

■第71話:2014年3月

かくされた宝石

お釈迦さまのことば

お経に次のようなことが示してあります。

昔、ある人が友の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅立った。友はその人の将来を気づかい、価(あたい)の高い宝石をその人の着物の襟(えり)に縫いこんでおいた。
そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食に苦しんだ。その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「お前の着物の襟(えり)に縫いこまれている宝石を用いよ。」と教えられた。
このたとえのように、仏性(ぶっしょう)の宝石は、貪りや瞋りという煩悩の着物のえりに包まれて、汚されずにいるのである。 (伝道協会『仏教聖典』」より「法華経」)

「仏性(ぶっしょう)」とは「すべての生き物が本来もっている、仏になることのできる性質のこと」です。どんな人でもすばらしい「仏性」という宝物を持って今日を生きています。
「仏性」というとむつかしいことばですが、いまのことばに置き換えると、
①物惜しみをしない心 ……………………………(布施)
②人のために仕事をしようとする心 ……………(利行)
③人にやさしい言葉で話そうとする心 …………(愛語)
④人の苦しみを自分の苦しみとうけとる心 ……(同事)
と言えます。こんな心を、本来だれもが持っているのだ、というのがこのお経の心です。
でも毎日生きていて、そんな「仏性」だなんて、なかなか気にしないですね。表にも出てこない。それは、私どもの毎日が「貪り(欲望)」や「瞋り(腹立ち)」の連続だからです。ひょっとすると、自分の仏性に気づくことなく一生を終わる場合だってあるかもしれません。つまり、「仏性」という宝物が「貪り(欲望)」や「瞋り(腹立ち)」という「着物のえり」に包まれて、表に出てこないのです。

幼子が しだいしだいに 知恵づきて 仏に遠くなるぞ 悲しき
という道歌があります。幼子はつよい我をもたないから無邪気で天真爛漫、人に愛おしまれます。しかし、その幼子も大きくなるにつれ、世渡りの「知恵」がつき、欲望や腹立ちが己れを支配し、肝心のいのちの不思議や、生かされている喜びなどを考えることなく毎日を送るようになります。
ではそんなのでいいのでしょうか。いえいえ、そうではありません。
私どもは、もう一方で、大人になっていくうちに大事な人との別れ、事業の失敗、挫折、災難との遭遇などの、人生の岐路に遭遇します。そして、それらに遭遇したからこそ、人生を見直そう、と思い立つことがあります。それが「本来持っている仏性が表に出た」瞬間です。

私は身体が動きません。なぜ私だけがこんなみじめな毎日を送らねばならないのか、何べんも自分をさげすみ、人を怨みました。でも、いまはちがいます。いまはみんなに感謝の気持ちで、心よりありがとう、と言えます。それが私の生きる喜びです。病気も、苦しみも、私が私になるための先生でした。と言った小児まひの男性がいました。
この男性は、不自由な身体の自分をこれほどまでに周りの人が見守りささえてくれている、そのうれしい気持ちを「宝石」といただいて喜んでいるのです。

また次回に。

合 掌

■第72話:2014年4月

ご縁ということ

仏教のみおしえ

知らない人どうしが出逢って親しくなったりすると「ご縁ですね」などといいます。結婚ができると「いいご縁で結ばれて」と言いますし、なかなか結婚ができないと「ご縁がなくって」と言います。めぐり合わせや関係のできるきっかけなどを表す言葉です。
実はこの「ご縁」ということば、仏教の「因縁」「縁起」からきています。
仏教では物事のありようを説明するのに「因縁」ということばを使います。物事が生じる「因」と、そうなるようにする力、つまり横からそれを助ける力を「縁」と呼び、この 「因」と「縁」の二つの働きで物事、つまり「果」ができあがる、という説明です。

たとえばチューリップで説明するとこのようになります。
チューリップの球根があります。これば「因」です。この球根が花を咲かせます。その花が「(結)果」です。放っておいては花が咲きません。花となるには水や熱などの助けが必要で、これを「縁」と呼びます。
このように球根は水や熱などの「縁」を得て花になります。これを「因・縁・果」と言い、略して「因縁」とも、あるいは縁によって物事が起きますからか「縁起」と言います。

では、今ここにいる、この私はどう説明されるのでしょうか。私どもは親から生まれてきました。だから、親が「因」でこの私が「果」でしょうか。そうとも言えますが、仏教ではその説明だけでこの私を説明した、とはいたしません。だって、その親はその前の親があって生まれてきます。その前の親もその前の前の親から生まれてきます。そうすると、私の今あるその親の「因」は計り知れない昔に始まった、いや、初めが解らない、と言えます。
そこで結論です。仏教ではこの「果」である私に対し、親を「縁」と呼ぶのです。
この私は親を「縁」として生まれてきた
と言います。同じことが子どもにも言えますね。
このわが子はこの私を「縁」として生まれてきた
と。
つまり、この私はもちろん、わが子にいたしましても、つながり合う「縁」で存在しているのです。いや親子だけではありません。あらゆるいのちと、この「私」は「縁」で存在しあっています。そうすると、世の中には「自分と関係ない」ものというものはない、と言うことができます。
ややこしいはなしになりましたが、仏教は、物事はこのように「縁」でつながりあって存在している、つまり「網の目のように」つながった中で存在している、と説明します。
最後になりますが、物事の存在の仕方を説明するだけでは、「喜ぶ生き方」にはなりません。
この「網の目のように」つながっている「縁」は、いつもこの「私」に極(きわ)まる、つまり、天地、一切のみ恵みは、ひとりこの「私」のためにある、といただくのです。
すると、感謝と喜びが湧いてくるのです。自分以外の周りを考えよう、とする力がついてきます。それが「ご縁」を戴く、ということです。
「ご縁」の教えは何も仏教に限ったことではありません。仏教でなくても、キリスト教でなくても、天地のみ恵みに感謝できる人は、喜ばしい人、と呼ばれるのです。

また次回に。

合 掌

■第73話:2014年5月

憲法記念日に寄せて

日本国憲法の精神と仏教のねがいは同じ

わが日本国憲法は戦後1946年(昭和21年)11月3日に公布され、それから半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されました。
その後、公布日の11月3日を、新憲法が平和と文化を重視していることから「文化の日」とし、施行日の5月3日を「憲法記念日」として国民の祝日としました。

わが《日本国憲法》は「(1)国民主権(主権在民)」「(2)基本的人権の尊重」「(3) 戦争の放棄(平和主義)」を3つの柱としています。

(1)国民主権(主権在民)
国を治める力を主権と言いますが、この主権は天皇や時の政府にあるのではなく国民にある、としています。国が国民を縛るのではなく、国民の権利・自由を国家権力から守るためにあります。
(2)基本的人権の尊重
私ども人間がほんとうに人間らしく生きるには自由と平等が保障されていなければなりません。その人間らしく生きる権利を基本的人権といい、日本国憲法では国民一人ひとりの基本的人権が尊重されることを保障しています。
(3)戦争の放棄(平和主義)
日本はあの戦争の経験から、軍隊や兵器は持たず、国と国との間のトラブルか起こったとき、決して戦争によって、自分の言い分を通そうとしないで、誠意ある話し合いで解決するようにする、と決めました。

作家の井上ひさしさんは 『憲法のおはなし』のなかで、
人間一人ひとり、かけがえのない存在として、大切にする社会。それを大事にしていこう、というのが日本の「憲法」
と言っています。この「かけがいのない私」の重要性の自覚とその確立こそ、仏教が目ざす大眼目です。

次の文句はお釈迦さまの有名なことばです。
おのれこそ おのれのよるべ。 おのれを措きて 誰のよるべぞ
よくととのえし おのれにこそ まこと えがたき よるべをぞ獲ん  (『法句経』第160偈)

お釈迦さまは、私どもがつねにみずから、反省と感謝をくりかえしながら、心身を調える努力をする生き方こそが、自己の確立につながり、そのことが健全な社会を作ることになる、と示しておられます。

今の日本の国は、経済のグローバル化をテコに、力づくで日本を成長させようとしています。これは欲望的経済主義です。それを「国益」と言ってはばからないのは悲しいことです。自国が第一でほかの国のことは二の次でいい、という考え方は取るべきではありません。

仏教は
相手があって私がある、という関係性を重視し、かけがえのないお互いどうしを損なわないよう、気をつけて今を生きていく
という姿勢を求めています。私たち仏教者、宗教者がめざす社会は、人と人とが底抜けに信じ合い、調えられた自己の形成を保障しあって作る社会です。
まさに憲法の精神と仏教のねがいは同じ、ということができます。

時の権力が自国の欲望のために簡単に人びとを管理して抑え、憲法の解釈を変えて戦争のできる国にするなど、してはならないことです。
それではまた次回に。

合 掌

■第74話:2014年6月

仏教も今回の大飯原発再稼働差し止め判決を支持します。

すばらしい判決文。この人を大切にする思いは仏教のねがいと同じです。

5月21日の「大飯原発3、4号機運転差止請求事件判決」が福井地裁(樋口英明裁判長)の判決文は、各方面から、論理的で、やさしく美しい文章といわれています。なんといってもすぐれているのは、人の生活と国の経済価値とを並べてみたとき、人の生活の方が大切、と言っている点です。
原発推進派の方々は、貿易赤字で国力が落ちる、と言いますが、判決文は「国富」の定義を示して次のように言っています(この一文は今回の判決文のなかでもいちばん反響の大きかった部分です)。
たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。

「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富です」という主張は人間の本来のあり方を示しています。
私どもは、原発のみならず、いろんなことについて、いつの間にか「わが国の経済発展優先」というモノサシで見る癖がつけられてきたのではないか、と思います。そして、私どもの眼と心が、自分ではなく、いつも外に向けられ、その結果、私ども自身の足下(あしもと)を見ることを忘れ、つまるところ、自由な動きが取れなくなってしまってきた、と言えるでしょう。今回の判決文は、そんな私どもに本来の人間の姿を取り戻せ、と教えてくれています。

お釈迦さまのお話に次のようなものがあります。
貴族の若者たちが女たちも連れて水浴びをしている間に、連れてきた女のひとりが脱いであった若者たちの服を盗って逃げた。若者たちはそれに気がついて、急いでそこらあたりのものを身につけ、その女を追いかけた。途中、若者たちは木の下で座禅をしているお釈迦さまを見つけ、「今ここに私たちの服をもって逃げた女を見かけなかったか」と聞いた。すると、お釈迦さまは
「御身(おんみ)たちよ、盗人を追いかけるのと、己れ自身を追いかけるのと、どちらが大事か」とお答えになった。

というのがあります。私ども自身の足下(あしもと)を見よ、ということです。仏教では「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」ということばを使います。お寺の玄関によく書いてあります。これは「己れの足下(あしもと)を見よ」ということ、つまり「己れ自身をよく見よ」ということです。
仏教は「人のしあわせは物欲を満足させるのがしあわせではない。大地に足をしっかりと根付かせ、まわりの人びとと手をたずさえてつくる和の生活こそが豊かな生活だ」と教えていますが、今般の判決文のねがいは、それと全くいっしょである、と戴いているのです。
それではまた次回に。

合 掌

■第75話:2014年7月

永観堂で毎月一度の法話のつどい「みかえり月次(つきなみ)説教」

今般、私どもの本山・永観堂禅林寺において、毎月第3土曜日午後2時からの「みかえり月次説教」がはじまりました。(8月と11月は休会/参加費無料)

みかえり阿弥陀さま 「みかえり月次(つきなみ)説教」という名称は、もちろん永観堂のご本尊「みかえり阿弥陀さま」からきています。そもそも永観堂のほんとうの名前は禅林寺です。しかし、永観さん(1033-1111)がこのお寺におられたことで、いつの間にか永観堂と呼ばれるようになりました。
永観さんは東大寺の管長にもなられた方ですが、東大寺を辞するとき、東大寺の阿弥陀さまをお守りして、いっしょに帰ってこられました。あるとき、永観さんが阿弥陀さまの壇の周りを念仏を称えながら歩いていると、その前を阿弥陀さまが先導される、ということがありました。びっくりして永観さんが立ち止まると、阿弥陀さまが後ろをみかえって「永観、遅い」とおっしゃったのです。余りの尊さに、永観さんは「そのみかえって下さるお姿を、末代の人びとにも伝えたく存じます。どうぞ、そのお姿のまま壇上にお戻りください」とお願いされました。それからというもの、この阿弥陀さまは、ずうっと「みかえりの阿弥陀さま」として今日までおいで下さるのです。

わたし自身をかえりみる
さて、第1回目の「みかえり月次説教」は布教師会会長である小生が担当しました。
題して「わたし自身をかえりみる」。少しその内容を紹介しましょう。
なぜ「わたし自身をかえりみるのか」。それは現在の世相を思うからです。
今年のお正月に、あるお世話になった先輩のお坊さまからご本を頂戴しました。そのご本の冒頭に「今の世の中 家はあるけど家庭がない、時間はあるけどゆとりがない、楽しみはあるけど喜びがない」と書いてありました。世の中の上ずった風潮に流される自分、「己れ不在の私」を見透かされた言葉です。
そこで必要なのは、自分は「自分という物差し」で周りを見ているのではないか、と自分をみかえること。もうひとつは「自分の存在はどんな存在か」と、これまた、己れをみかえることです。「みかえり阿弥陀さま」の精神ですね。

「私」のいのちはあらゆるご縁の極まったもの
「私」のいのちは、時間的にも空間的にも、あらゆる他のいのちと、切ろうにも切れない「縁」によってつながっています。もっと言えば、あらゆるご縁の極まったものが今日の、この「私」といえます。

私には親があり、祖父母があり、曾祖父母がいる・・・。この人たちのうち、一人でも居なかったなら、私は今、ここにいない、ということはわかりますね。また、私の周りには太陽、空気、水、木、土、人、動物・・いっぱいありますが、これらはおたがいを存在させるためにつながり合っていて、それで、この「私」が今、ここに在るのだ、ということもわかります。

こういう「私」のいのちがあらゆるご縁の極まったもの、と戴けたとき、思わず、それに感謝し、よろこぶ気持ちが出てきます。この感謝し、よろこぶ気持ちを絶えず、持ち続けていくと、自分はこれでよかったのか、と反省をしたり、自分の内面をまた見つめてみたりすることができるようになる、というものです。
そうすると、実生活では、「いのち」に感謝をし、「ありがとう」ということばがいつもより多く口について出てくるようになる、と思います。それが「しあわせの生き方」です。

「しあわせの生き方」になるのは、やはり「自分をかえりみる」習慣をつけることから始まる、と言えるのではないでしょうか。
それではまた次回に。

合 掌

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