恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第187話:2023年12月

私が「生きている」のではなく「生かされている」という視座を

私たちは、自分のいのちは自分のもの、と思って生きています。しかし、ほんとうに自分のいのちは自分のものか、というと、見方を変えるとそうではないことがわかります。

一人のいのちは両親2人からいただいたもの、その両親それぞれの両親、つまり4人から、その祖父母の両親となると8人から、というふうに見ていくと、何と10代前まで遡ると、なんと、横並びで1024人の親がいたことになります。この先祖からずうっと《いのちのバトン》を受け継いで、今日のいのちがあるわけです。これだけの人たちのうち、一人でも欠けていたのなら、今日の私のいのちは生まれてこなかったのです。《いのちのバトン》とは、先祖からのつながりいのち、言いかえれば「時間のつながり」を言います。

金子みすゞさんの詩に「蜂と神さま」というのがあります。
蜂はお花の中に
お花はお庭の中に
お庭は土塀の中に
土塀は町の中に
町は日本の中に
日本は世界の中に
世界は神さまの中に
そうしてそうして
神さまは ちいちゃな蜂の中に

この詩を読むと、「蜂」は宇宙の中をいろんなものにつながりあって生かされていて存在している、ということがわかります。「蜂」を「私」におきかえて読んでみましょう。するとこの私はあるゆるいのちと横につながっているいのち、つまり「空間のつながり」 の中を生きていることがわかります。

私どもは時間的な、空間的な「あらゆるいのちのつながりの中」に、「いま、ここに現象」として存在しているのです。ですから、今ある「私」は昨日の私とはちがうわけで、また、明日の私は今の私とはまた違っているのです。このように「私」というものは一直線上に変化があるのではなく、あらゆる時間と空間をくるくると回って、「今」「ここに」いるのです。
つまり、私が「生きている」のではなく「生かされている」のです。
これは仏教の大変重要なものの見方です。
いまの時代、いのちのつながりを考える機会がないままに、前へ進んで生きねばならない状況が続いています。
自分のいのちのあり方について、この私の存在の仕方について、もう一度、一歩立ちどまって、よおく考えてみたいと思います。
合掌。

 

■第186話:2023年11月

「忘己利他」己を忘れ、他を利するは、慈悲の極みなり

これは比叡山において天台宗を創めた「最澄(さいちょう)」さまのことばです。原文は「忘己利他 慈悲之極」と漢文で書かれて今。
最初の「忘己利他」は「もうこ りた」と読みます。(声を出して読むと「もう懲りた!」のように聞こえますが…)。
「自分の《我》というものを忘れ、まわりの人のことを考えて生きていくことは《慈悲》の最高の状態である」という教えです。

私ども、生きていくということは、食べたい、寝たい、いい所に行きたい、好きな人といっしょにいたい、など、自分の〈欲〉が基になっています。しかし、その〈欲〉を好き放題に大きくしていくと回りと衝突してしまい、おたがいにとって悪い影響が出てきます。
仏教ではそれを〈我欲〉、あるいは単に〈我〉があるから、と教えます。つまり、仏教の教えの根本は「〈我〉の存在に気づき、それをコントロールする」生き方をすることです。そして、それが「利他」、つまり、苦しんでいる人のことを思う、そして具体的に動く、ということにつながるのです。

良寛さん、というお坊さんがいましたね。法事もお葬式もしない。寺にも住まず、小さな庵を借り住まいにして、托鉢生活で日暮らしをしていました。ふだんは歌を詠んだり、書をかいたり、そして子どもたちと遊ぶのが大好き、そういう人です。
ある冬の寒い日、良寛さんの粗末な庵に、貧しい母子が「食べるものを恵んでください」と物乞いに来ました。良寛さんは手元に何もありませんから、恵んでくれそうな人を思いおこして、「この母子に食べ物を与えてやってください」と、その人宛の手紙を書いて渡した、という逸話が残っています。
良寛さんは「自分は二の次、この母子になんとかこの日の食べ物だけでもありつけるように」と思ったのです。
ここで「良寛さんは自分は二の次」と書きました。良寛さんは、自分の〈我〉を横に置いて人と接するから、相手の辛い思いがよくわかったのだと思います。良寛さんは、そおっと人の苦しみに寄り添う、そんなお坊さんだったのですね。まさに「利他」のお坊さんだったのです。

そして、最澄さんの後半のことばにある「慈悲」の字義についてです。
仏教で「慈悲」と言うとき、その「慈」と「悲」の二つの漢字について、
「慈」は相手に安心を与える生き方を言います。そして「悲」は相手の辛い、苦しいという思いを取り除く生き方、と説明されます。
最澄さんはこの「慈悲」こそ、「忘己利他」の私どもの生き方の基本、と示されたのです。
「忘己利他」の生き方、自分の「我」をコントロールする、横に置く練習を始めてまいりましょう。また次回に。
合掌。

■第185話:2023年10月

またまた少欲知足 京都の年間猛暑日日数過去最多記録

日本有数の暑い都市としても知られる京都ですが、京都市で今夏に記録した猛暑日(35度以上)は過去最多の38回。この先もまだまだ記録が伸びると言われています。
なぜこんなに猛暑になってしまったのでしょう。やはり気候変動、つまり地球温暖化のせいです。現代に生きる私ども人間のせいです。
私ども人間は産業革命以後、自分たちの生活が便利で快適であるように、と電気を発明し、車や飛行機を動かし、そのもとになる石炭や石油、天然ガスなどをたくさん燃やしてきた結果です。また、食料となる家畜をたくさん育てたり、農業生産を多くするために森林を伐採していく、ということもその原因です。私どもは大切な自然を荒らして人間にとって都合のいい生活形態を作ることを目指してきました。その結果がこの地球温暖化です。自業自得です。
《気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第5次評価報告書》では「地球温暖化の本当の原因は、人間活動が原因である可能性ことが極めて高い(95%以上)」といっています。
要は、われわれ人類の生産活動が原因で、大気中の二酸化炭素、メタン、一酸化二窒素などの温室効果ガスを、過去に類を見ない水準まで増やしているのです。

仏教では「少欲知足」ということを言います。《欲は少なく、満足することを知る》という意味です。「欲のコントロール」を我々の生き方にしよう、ということ、つまり我々人間は自然との調和の中を生かせてもらっている、という法則を知えきびょう、ってもたらされた生活知性です。
私たちのまわりは今、戦争や飢饉、疫病で、十分な食料が行き届かなくて死んでいく人がたくさんいます。その一方で「飽食」や「食品ロス」が問題になっています。
今から12年前、「世界一貧しい大統領」とよばれたウルグアイの前の大統領ホセ・ムヒカさんは国連のSDGsの会議で演説しましたが、その中のことばがとても有名になりました。あらためて「少欲知足」を考える言葉として紹介いたします。
貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ
私たちの生き方を反省させることばです。
10月になれば、気温は下がるでしょうが、しかし、この異常気候の地球を作っているのは私どもの「欲」である、と自覚してまいりたいと思います。
こころゆたかな秋の季節を過ごすように努めてまいりましょう。合掌。

■第184話:2023年9月

老化って悪いこと?

人間、高齢になると、体が思うように動かない、物忘れをする、病気がふえる、など、老化現象が出てきますね。しかし老化は自然のことです。
お釈迦さまは、どんな人でも老・病・死から免れることはできない。そのことをしっかり受け止めて人生を見るのが基本である、とお示しになりました。
しかし、今の世の中では、病気をしない、認知症にならない、人の世話にならない、そんな老人がいい老人、と思われています。
しかし。老いるのは「悪」ではない、自然なのです。 精神科医の香山リカさん(63)は「認知症になっちゃいけないの?」と問いかけ、そして、老いることについて、「若さを上手に手放して、代わりにほかの《人生の宝物》を手にすることが大事」と言っておられます。
「若さを上手に手放して」という覚悟がいいですね。

そこで、私も含めて、高齢者のみなさんへのメッセージです。

「若さへの執着は卒業して、長い人生経験からわかったこと、深く考えられるようになったことに自信を持ちましょう。そして、人を大事にすること、平和の大切さを若い人たちに伝えていくように勤めましょう。
体は不自由でも年をとったからこそ、これからの生き方がいっぱいあると思いなおして、くじけずに日暮しをしてまいりましょう。」

  やはり年をとって前向きに生きる、というのは、こんな私が、いろんなご縁によって、生かされている、ということに気づくことから始まると思います。そしてそのことを喜ぶこと、それが生活のベースとなるのです。
いつも紹介する坂村真民さんの「喜べ」という詩、また掲載します。いっしょに読んでみましょう。

喜べ喜べ
喜んでいると
みんな寄ってきて
助けてくれる
それと反対に
悲しんでばかりいると
みんな離れていってしまう
だから喜べ喜べ
それが幸せの秘訣だ

また来月に。
合掌

■第183話:2023年8月

人間の欲が地球環境を悪くしています

いま日本にジェーン・グドールさん、という動物行動学者が来ておられます。彼女は今89歳。いまの地球環境の悪化に対し、ご自身の専門分野の観点から、とても建設的な発言をしておられます。
仏教では「あらゆるいのちはおたがいつながりあって存在する。単独でそのものが存在する、ということは決してない。だからおたがいを大事にし、自分の我を二の次にする生き方をしなければならない」と言います。グドールさんの環境についての発言はその仏教の縁起説と通底していますので紹介します。

私たちが抱えている大きな問題の一つは、自然から切り離されていることです。人間の未来の存続は、健全な環境が保たれるかにかかっています。それは動物や植物が複雑に絡み合って構成されていて、すべてが役割を担っている。そのひとつが失われるたびに、生態系は不安定化し、いつかは生態系全体が崩壊します。
そして、彼女はこう続けます。
人間と動物はお互いを尊重しなければなりません。
にもかかわらず人間は、食肉やペットとして野生動物を密猟し、売るようなことまでしています。一方で、抗生物質に耐性を持つスーパーバグ(超多剤耐性菌)が増え、それが原因の感染症により世界中で多くの人が亡くなっています。
この新たなパンデミックを避けるためには工場畜産、そして化学肥料や農薬を投入する慣行農業をやめるべきです。
より小さな規模で良い食べ物をつくる、環境に配慮した持続可能な農業へ移行する必要です。開発についても考え直さなければなりません。 新しい道路やダムが必要とは言えません。
スーパーマーケットを建てるために美しい森を切り倒す必要はありません。
全くその通りですね。
自然のもの一切はおたがいがつながりあい助け合って存在している、と常に教える仏教、いま「自分の我を二の次にする生き方」を考えていこうではありませんか。

合掌

■第182話:2023年7月

「市原の用水路」から学ぶ先人の生き方

先日、地元の小学校4年生の子どもたちを前に「ふるさと・市原野」についてお話しました。
テーマは「市原の用水路」です。
わが市原の里では江戸時代初期、今から350年ほど前、それまで米のとれなかったところに灌漑用水路を作ってコメ収穫ができるようになりました。その用水路建設を指導したのが当時の京都所司代の板倉重矩(いたくらしげのり)でした。
この市原の「板倉用水路」は市原の北部を流れている静原川から取水して、市原の東の山裾を通り、市原駅を通って、恵光寺の下の鞍馬街道で北上させて、そこから4本の支線を作って市原の村全体に水が流れるようにしたものです。全長は5㌔ほどのものですが、当時の人たちにとっては米が収穫できたことが画期的な出来事でした。
いまでも市原の町では板倉氏の功績を謝するため、毎年6月晦日に「板倉忌」を市原神宮寺で行っています。
小学校の子どもたちにはその水路の話をしながら、昔の人たちの「コメ作り」をいっしょに考えました。
「コメ作り」は大変なことです。
お米を育て、収穫するにはどれだけの人の力がいるか、田植えが終われば、次に草鳥をしなければならない、大きくなるのはうれしいけれど、台風で稲が倒れてダメになってしまわないかなど、心配と苦労と労力はいつもつきまといます。家族はもちろん、身内や近所の人たちと協力し合って一所懸命コメを育てる作業に精を出します。
江戸時代の農政家である二宮尊徳(1787-1856)の歌に「この秋は雨か嵐かしらねども今日の勤めに田の草ぞ引き抜く」というのがあります。収穫を夢見て農作業に勤しむのですが、尊徳翁は「コメは日光、風、雨、自然のめぐみでできるのだ。先のことは考えず、今日、今、しなければならない草取りなら草取りに精を出すことがいちばん。そう思ってコメ作りにつとめはげむことだ」といっています。
コメを育て収穫する、というのはずいぶんつらい、しんどいことです。「人の手を八十八回、煩わせて、やっとコメ1粒ができる」といって「米」の字の成り立ち、つまり「米」は「八・十・八」と書く、と説明することもあります。
まったくそのとおりですね。
そんな具合ですから、その分、立派に収穫ができたときはどれだけうれしいか、その喜びと感謝を天地の恵みとうけとって、神仏に感謝をして秋祭りを行うのです。
と、まあ、こういうお話をさせてもらいました。

合掌

■第181話:2023年6月

雑草という名の草はありません。害虫という虫はいません。
人間が自分の都合でつけた呼び名です

いまの世の中、私たちは自分を中心にして物事を見、生活するようになりました。その最たるものが都会での生活です。都会とは私たちにとって意味のあるもの、つまり便利、効率、快適を求めて人間が作り上げたものです。それに対して、山や川、海など自然界のもとでの生活は、人間にとって不便、非効率で、意味のないもののように見られるようになってしまいました。
しかし、ここで考えなければならないことは、今日の私のいのちはいろんなものとつながり、関わりあって存在している、という事実についてです。

仏教は「相依相待」(そうえそうたい)といって「一つのものが存在するためには他のものに依っていて、他のものなしにはその一つのものも存在し得ない」という関係性を根本においています。

今回、タイトルで紹介した言葉はテレビ小説などで脚光を浴びている言葉です。雑草とよばれる名のない草は、それはそれで存在する理由があります。つまりこれらの草は他のものたちによって存在しますが、同時に、他のものを支えている存在でもあります。
それを私どもが、都会的な見方、つまり「自分にとって意味のあるもの」だけが存在すればよい」という傲岸な見方をしてしまって要らない草は「雑草」、邪魔になる虫は「害虫」と呼んで憚らないのです。
仏法から外れた傲岸な生き方を私どもはしている、と猛反省しなければなりません。

合掌