恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第140話:2019年12月

兵戈無用(ひょうがむよう)は仏さまのねがい

「災励不起 国豊民安 兵戈無用」という言葉がお経(『無量寿経』)の中にあります。読み下せば「災害は起こらず、国は豊かで、人の心は安定し、兵器は無用だ」ということです。ではなぜ災害は起こらず人心は安定するのか、お経の文句はその前段で「天下和順 日月清明、風雨以時」つまり「天地の運行が和順で、日も月も清らかで明るく、風や雨はその時々に応じて起こる」といっています。
つまり、天地の運行が自然で調和を保っていると、太陽も月も清らかで明るいし、風も雨もバランスよくやってくる。そんな世界にいると災害はないし、人々の心はつねに安らかで、戦争は起こらない」と読むことができます。これ、2000年以上も前のお釈迦さまのお言葉で、仏さまのねがいを言ったものです。
今の時代を言い当てているように聞こえます。

今の時代、人びとの飽くなき欲は地球環境を温暖化させ、その気候変動にのために今までなかった大型の台風が発生し、雨や風は想定外に私たちに襲いかかり、毎年たくさんの人が亡くなり、被害も甚大になってきています。それに加えて、人びとの心は、今さえよければいい、とばかり、国益の名のもとに経済競争に躍起になり、つまるところ戦争を生んでいきます。地球の環境、人びとの生活は心身ともに追い詰められて来ています。
こんな状況の下、国連は環境問題、人びとの貧困、差別など、将来が見越せない状態にある、何とか歯止めをかけなければ、と2015年に「持続可能の発達目標(SDGs)」を定めました。

折しもこの11月下旬、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が来日。長崎・広島で、福島避難者との面会などの場でメッセージを発しました。教皇は「戦争のために核を利用することは犯罪」「核兵器は安全保障への脅威に関して私たちを守ってくれるものではない」「原子力を戦争目的のために使用することは倫理に反する」「軍備拡張競争は貴重な資源の無駄遣い」「真の平和とは非武装の平和以外にあり得ない」と核兵器・武力による戦争反対を表明しました。今回の教皇を迎えての長崎、広島の集いには森川天台座主、江川日本仏教会会長、大谷本願寺派門主など日本の仏教指導者、他宗教指導者もたくさん参加しました。
まさに今の時代にあって宗教者のねがいは戦争に反対し、戦争の勃発を未然に止めることにあります。その思いを教皇が日本の国から世界に訴えました。

ところが、この教皇来日の少し前に、平和憲法のあるわが日本で初めて武器見本市が千葉県の幕原で「盛大に」行われました。日本の防衛相が応援をして、つまり国家が支援しての開催です。日本の国を挙げて武器を世界に売り込もう、というイベントです。こんなこと、あってはならないことです。それが、教皇来日と重なるようにして行われたことも皮肉なことです。

最初に紹介したお経をもういちど見てください。地球環境を悪くしてきたのは私どもの欲であり、他国よりも優位な立場に立たないとそれが実現しない、そのためには戦争をちらつかせねばならないという、今の動きです。より精巧に、遠隔操作で使われる多種の武器を売る「死の商人」が日本にたくさん増えてきている事実を見逃してはなりません。

宗教者は世界の平和を願っています。みなさんといっしょに戦争のない世界、武器を使わない世界、「兵戈無用」の世界を目指してまいりましょう。


それではまた次号で。

合掌

■第139話:2019年11月

お天道さんが見たはるよ 罰が当たるよ

先月は、国連の気候行動サミット席上で16歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが「地球環境を悪くするのは経済成長のためなら何でもする、というあなたがた、今のおとなたちです。そして被害をこうむるのは次代の私たち。許さない!」と訴えた、というお話をしました。
今の世界は経済成長という「欲」をあからさまに前面に出して動いています。
確かに、私どもには生存するうえで「欲」は必要です。しかし「欲の灰汁抜き」を心がけねばなりません。

「欲は出したい、でもここはガマン」という清らかな心を持ちたいものです。そんな時、理屈ではなく、心の中で立ち止まらせる何かがあるような気がします。
「そんな欲ばり、お天道さんが見てますよ」
といわれた経験はありませんか。
自分が欲の心をもったとき、その欲を通していいか、それはいけないか、迷うとき、こんな言葉に出逢って心が揺らぎます。実はこの「揺らぐ心」こそ心が健全である証拠、といえるでしょう。
人はひとりで生きているのではありません。ほかの人とのつながり、バランスの中で生かせてもらっています。ですから自分だけがしたい放題することは許されません。欲にブレーキをかける心の働きが必要です。

私の母は何かすると「仏さんが見たはるよ」といっていました。そのことばのお陰で、自分なりに欲のコントロールをしよう、としてきました。
私の友人のお坊さんは小学学校に行くとき、必ずおばあちゃんが玄関まで見送りに出てきて「お前の頭のうしろ、肩のところに仏さんがいつもくっついたはるんや。そやから悪いことしたらあかん」といわれた、といいます。ですから、その友人は、そのことが気になって、朝、学校に行くのに自分の肩に仏さんがくっついているのはかなわないので、家を出るなり思いっきり走り出して、四つ辻などへ来ると、その仏さんを振り落とそうと、急に体をひねって角をまわった、と言っていました。

目に見えない、何か神さま、仏さま、お天道さま、に見られているという思いは生活の上で重要だと思います。またあるときは、それが「罰が当たる」という言い方でセルフコントロールしていたこともあります。
「欲を出しすぎたから罰が当たった」といいます。欲を出したことと失敗したこととの因果関係などわかりません。それでも悪いことがおこると「罰が当たる」といい、いい結果になると「ほとけさんのおかげ」と教えられたものです。
それではまた次号で。

合掌

■第138話:2019年10月

いのちは繋がっているもの

今、気候変動の危機が叫ばれています。地球温暖化対策の国際ルール・パリ協定のスタートを来年に控え、国連では気候行動サミットが開かれました。ここであの16歳の少女が登場しました。いわゆる金曜日には学校に出ないで環境問題を訴えているスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさん(16)です。彼女は国連の会議の席上、各国代表を前に「私たちは大量絶滅の入り口にある。でもみなさんが口にできることといえば、お金のことと、経済成長は永遠に続くというおとぎ話だ」「若者はあなたたちの裏切りに気づき始めている。もし私たちを見捨てる道を選ぶなら、絶対に許さない」と厳しい口調で訴えました。
今のまま、大人に任せておけば、大人はしたい放題、将来に「とりかえしのつかない事態」がおこる、というのです。

16歳の少女が憤りをもって訴えた言葉は、「いのちは繋がっている」ということです。大人が地球を温暖化にしてしまえば、そのつけは子どもたち、未来の人たちにまちがいなく回ってくる、とりかえしがつかないところまで来ている、と訴えています。なぜ、大人はそんなにまでして地球環境を悪くするのか。グレタさんは「お金のこと、経済成長へのおとぎ話」と断言しています。全くその通りです。
今、環境問題といえば、地球温暖化だけではありません。マイクロプラスチックごみの問題、食品ロスの問題、原発もそうです。これはひとえに「自分の時代は便利でお金になる商品を作ればいい」という自分勝手でできたものです。

今や、悪化した地球の環境を正すのには、考え方として「いのちは繋がっている」という思いをいろんな場面で示すべきです。
私たちのいのちは私たちだけの一生で終わるものではありません。私たちが作ってしまったものはいいものであれ、悪いものであれ、遺産として未来の子どもたちに遺されていきます。

「あなたのいのちはあなたの生きている間だけのことですか」と問いかけられれば、あなたはどう答えますか。「いのちは永遠に続く」と答えられますか。仏教では「寿(いのち)は永遠であり、また光(ひかり)も永遠であるといいます。寿は時間、光は空間のことを表します。私たちは永遠の時間と永遠の空間のその交わったところに居させてもらっているのです。このことをしっかりと気がつかなければなりません。
「死んだ後は野となれ山となれ、私の知ったことではない」という生き方を今の世の中はしているのではないでしょうか。次の世代に大切ないのち、宝物を残していく、つないでいく、これが、いま私どもがしなければならないことです。これをしなければ「とりかえしのつかない事態」になってしまいます。
それではまた次号で。

合掌

■第137話:2019年9月

歳をとるほどに学ぶ姿勢が大事

聞くことの少ない人は、
牛のように老いる。
かれの肉はふえても、
かれの智慧は
ふえることがない。
『ダンマパダ』 152

『ダンマ・パダ』は仏教の論語ともいわれ、26品423句で出きています。どれも短く覚えやすく、現代に通じる内容がとても多いのです。
この152番は「老耄」という品の中にあります。「聞くこと」とは「学ぶこと」に置きかえて、年をとって学ぶことが少ない人はただ牛のように年をとっていくだけで、智慧がふえない、と読みましょう。

「学ぶ」ということばは「真似る」からきているそうで、他の人のしているいいところを見つけては真似をしてみよう、と思う、それが学ぶということです。年を取ると人のいいところがなかなか見えず、人の悪いところばかりが気になって、一人で腹を立てたりするものです。
智慧はものごとの表面や現象の背後にある道理を見極めることを言います。病気でつらい思いをしている人に「あなたの病気、大したことないからがんばりなさい。」なんて励ましのつもりで言う場合があります。それに対し、智慧ある人は「つらいでしょうね。」と病気でつらい思いをしている相手の心の中はどんなのか、洞察しようとします。
陽射しやそよ風に育てられている、見えないいのちにこの私が見守られている、など、日常のいのちのありようを学ぼうとする人は、年をとってもどこか凜としていて立ち居振る舞いもちゃんとしているものです。


ではまた次回に。 合掌

■第136話:2019年8月

こんな私が 光の中につつまれている存在です

私たちの日常を考えてみましょう。毎日忙しい、あれをしなければならない、これをしなければならない、と時間に追われています。家の中では子どもにはああしなさい、こうしなさい、お年寄りにはそれをしてはダメ、大丈夫ですか、仕事では、なぜ私の言うことを聴いてくれないのか、などなど自分の「我」が出る、といえばいいのでしょうか、ストレスをかかえこむの日常です。

そんな時こそ、ふだん考えない「自分はどんな存在なのだろうか」を考えてみることも必要です。
そもそもこの私がここにある、というのはどういうことでしょうか。なぜこの私がいま、ここに在るのでしょうか。誰のおかげでここに存在しているのでしょうか。
私がここに在るのは、近くは両親が生んでくれたからです。でもそれだけではありません。祖父母、曽祖父母、先祖がいなかったらその両親もいないのです。親以外にいろんなお世話になった人たち、いや、人だけではありません。食べるもの、住むところ、着るもの、みんな人が作ってくれたものばかりです。もっと言うと、陽射しが、そよ風が、雨が、大地がこの私を育て、存在させてくれているのです。
そうやって考えていくと、この私がここに在るのは、太古からの至上命令というか、避けられない大いなるつながりがあるから、と気がつきます。
そして、そのことは、今日、ここに在る私が、子どもはじめ、次代の人たちに大事なものを残しておく役割が与えられている、ということでもあります。

浄土教のお経の中に阿弥陀さまについて述べられているところを見てみましょう。
阿弥陀さまのみ心、本体は「光」だと示してあります。それはそれはとてもお大きな光です。その光があるから生物は育ち、大きくなっていく。そしてやがて、その生物は子どもを産み、いのちのバトンを次の世代に繋いでいくのですが、そこにはいつも「光」が私どもを包んでくれているのです。阿弥陀さまの「光」は宇宙の「光」です。
もうひとつ、お経の中に「浄土の世界は天の音楽が鳴り響いているところだ」という件(くだり)があります。浄土では光の中、きれいな鳥たちのさえずる声はとても美しく、あたかもほとけさまのお説教に聞こえるそうです。それだけではありません。やさしく吹く風をうけて木々の枝は揺れ、葉づれの音は美しい天の音楽となって聴こえるそうです。浄土は音楽の世界です。浄土ではあらゆる現象はとうとい音となって私どもに確認されていくのです。
浄土は光と音楽の世界、ということができます。

そして最後に、この私どもを包んでくれているこの仏さまの光はいつからの始まったのか、見てまいりましょう。
お経の中には、無数劫という、あずかり知らない天文学的数字の年月をかけて、阿弥陀仏は私一人をすくい取ろう、とみずから光を放って、その光がいま、この私を包んでくれている、とあります。そのとうとい光は、きょうの私のために照らし、この私を包んでくれているのです。
たとえば銀河系の端の星の光が地球上の私のところに届くのに何億光年という年月がかかっていることを考えると、阿弥陀さまの光が無数劫という天文学的年月を経て、今の私に届いている、というのは不思議中の不思議ではありませんか。
浄土の教えを具体的に体で表現するには「念仏をとなえること」につきます。念仏とは「南無阿弥陀仏」という六字の名号を口に出してくりかえし、くりかえして唱えることです。
念仏をとなえることは、そのまま、お浄土の仏さまの光の世界、音楽の世界に抱かれている私の姿をしることなのです。


ではまた次回に。 合掌