恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第138話:2019年10月

いのちは繋がっているもの

今、気候変動の危機が叫ばれています。地球温暖化対策の国際ルール・パリ協定のスタートを来年に控え、国連では気候行動サミットが開かれました。ここであの16歳の少女が登場しました。いわゆる金曜日には学校に出ないで環境問題を訴えているスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさん(16)です。彼女は国連の会議の席上、各国代表を前に「私たちは大量絶滅の入り口にある。でもみなさんが口にできることといえば、お金のことと、経済成長は永遠に続くというおとぎ話だ」「若者はあなたたちの裏切りに気づき始めている。もし私たちを見捨てる道を選ぶなら、絶対に許さない」と厳しい口調で訴えました。
今のまま、大人に任せておけば、大人はしたい放題、将来に「とりかえしのつかない事態」がおこる、というのです。

16歳の少女が憤りをもって訴えた言葉は、「いのちは繋がっている」ということです。大人が地球を温暖化にしてしまえば、そのつけは子どもたち、未来の人たちにまちがいなく回ってくる、とりかえしがつかないところまで来ている、と訴えています。なぜ、大人はそんなにまでして地球環境を悪くするのか。グレタさんは「お金のこと、経済成長へのおとぎ話」と断言しています。全くその通りです。
今、環境問題といえば、地球温暖化だけではありません。マイクロプラスチックごみの問題、食品ロスの問題、原発もそうです。これはひとえに「自分の時代は便利でお金になる商品を作ればいい」という自分勝手でできたものです。

今や、悪化した地球の環境を正すのには、考え方として「いのちは繋がっている」という思いをいろんな場面で示すべきです。
私たちのいのちは私たちだけの一生で終わるものではありません。私たちが作ってしまったものはいいものであれ、悪いものであれ、遺産として未来の子どもたちに遺されていきます。

「あなたのいのちはあなたの生きている間だけのことですか」と問いかけられれば、あなたはどう答えますか。「いのちは永遠に続く」と答えられますか。仏教では「寿(いのち)は永遠であり、また光(ひかり)も永遠であるといいます。寿は時間、光は空間のことを表します。私たちは永遠の時間と永遠の空間のその交わったところに居させてもらっているのです。このことをしっかりと気がつかなければなりません。
「死んだ後は野となれ山となれ、私の知ったことではない」という生き方を今の世の中はしているのではないでしょうか。次の世代に大切ないのち、宝物を残していく、つないでいく、これが、いま私どもがしなければならないことです。これをしなければ「とりかえしのつかない事態」になってしまいます。
それではまた次号で。

合掌

■第137話:2019年9月

歳をとるほどに学ぶ姿勢が大事

聞くことの少ない人は、
牛のように老いる。
かれの肉はふえても、
かれの智慧は
ふえることがない。
『ダンマパダ』 152

『ダンマ・パダ』は仏教の論語ともいわれ、26品423句で出きています。どれも短く覚えやすく、現代に通じる内容がとても多いのです。
この152番は「老耄」という品の中にあります。「聞くこと」とは「学ぶこと」に置きかえて、年をとって学ぶことが少ない人はただ牛のように年をとっていくだけで、智慧がふえない、と読みましょう。

「学ぶ」ということばは「真似る」からきているそうで、他の人のしているいいところを見つけては真似をしてみよう、と思う、それが学ぶということです。年を取ると人のいいところがなかなか見えず、人の悪いところばかりが気になって、一人で腹を立てたりするものです。
智慧はものごとの表面や現象の背後にある道理を見極めることを言います。病気でつらい思いをしている人に「あなたの病気、大したことないからがんばりなさい。」なんて励ましのつもりで言う場合があります。それに対し、智慧ある人は「つらいでしょうね。」と病気でつらい思いをしている相手の心の中はどんなのか、洞察しようとします。
陽射しやそよ風に育てられている、見えないいのちにこの私が見守られている、など、日常のいのちのありようを学ぼうとする人は、年をとってもどこか凜としていて立ち居振る舞いもちゃんとしているものです。


ではまた次回に。 合掌

■第136話:2019年8月

こんな私が 光の中につつまれている存在です

私たちの日常を考えてみましょう。毎日忙しい、あれをしなければならない、これをしなければならない、と時間に追われています。家の中では子どもにはああしなさい、こうしなさい、お年寄りにはそれをしてはダメ、大丈夫ですか、仕事では、なぜ私の言うことを聴いてくれないのか、などなど自分の「我」が出る、といえばいいのでしょうか、ストレスをかかえこむの日常です。

そんな時こそ、ふだん考えない「自分はどんな存在なのだろうか」を考えてみることも必要です。
そもそもこの私がここにある、というのはどういうことでしょうか。なぜこの私がいま、ここに在るのでしょうか。誰のおかげでここに存在しているのでしょうか。
私がここに在るのは、近くは両親が生んでくれたからです。でもそれだけではありません。祖父母、曽祖父母、先祖がいなかったらその両親もいないのです。親以外にいろんなお世話になった人たち、いや、人だけではありません。食べるもの、住むところ、着るもの、みんな人が作ってくれたものばかりです。もっと言うと、陽射しが、そよ風が、雨が、大地がこの私を育て、存在させてくれているのです。
そうやって考えていくと、この私がここに在るのは、太古からの至上命令というか、避けられない大いなるつながりがあるから、と気がつきます。
そして、そのことは、今日、ここに在る私が、子どもはじめ、次代の人たちに大事なものを残しておく役割が与えられている、ということでもあります。

浄土教のお経の中に阿弥陀さまについて述べられているところを見てみましょう。
阿弥陀さまのみ心、本体は「光」だと示してあります。それはそれはとてもお大きな光です。その光があるから生物は育ち、大きくなっていく。そしてやがて、その生物は子どもを産み、いのちのバトンを次の世代に繋いでいくのですが、そこにはいつも「光」が私どもを包んでくれているのです。阿弥陀さまの「光」は宇宙の「光」です。
もうひとつ、お経の中に「浄土の世界は天の音楽が鳴り響いているところだ」という件(くだり)があります。浄土では光の中、きれいな鳥たちのさえずる声はとても美しく、あたかもほとけさまのお説教に聞こえるそうです。それだけではありません。やさしく吹く風をうけて木々の枝は揺れ、葉づれの音は美しい天の音楽となって聴こえるそうです。浄土は音楽の世界です。浄土ではあらゆる現象はとうとい音となって私どもに確認されていくのです。
浄土は光と音楽の世界、ということができます。

そして最後に、この私どもを包んでくれているこの仏さまの光はいつからの始まったのか、見てまいりましょう。
お経の中には、無数劫という、あずかり知らない天文学的数字の年月をかけて、阿弥陀仏は私一人をすくい取ろう、とみずから光を放って、その光がいま、この私を包んでくれている、とあります。そのとうとい光は、きょうの私のために照らし、この私を包んでくれているのです。
たとえば銀河系の端の星の光が地球上の私のところに届くのに何億光年という年月がかかっていることを考えると、阿弥陀さまの光が無数劫という天文学的年月を経て、今の私に届いている、というのは不思議中の不思議ではありませんか。
浄土の教えを具体的に体で表現するには「念仏をとなえること」につきます。念仏とは「南無阿弥陀仏」という六字の名号を口に出してくりかえし、くりかえして唱えることです。
念仏をとなえることは、そのまま、お浄土の仏さまの光の世界、音楽の世界に抱かれている私の姿をしることなのです。


ではまた次回に。 合掌