恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第136話:2019年8月

こんな私が 光の中につつまれている存在です

私たちの日常を考えてみましょう。毎日忙しい、あれをしなければならない、これをしなければならない、と時間に追われています。家の中では子どもにはああしなさい、こうしなさい、お年寄りにはそれをしてはダメ、大丈夫ですか、仕事では、なぜ私の言うことを聴いてくれないのか、などなど自分の「我」が出る、といえばいいのでしょうか、ストレスをかかえこむの日常です。

そんな時こそ、ふだん考えない「自分はどんな存在なのだろうか」を考えてみることも必要です。
そもそもこの私がここにある、というのはどういうことでしょうか。なぜこの私がいま、ここに在るのでしょうか。誰のおかげでここに存在しているのでしょうか。
私がここに在るのは、近くは両親が生んでくれたからです。でもそれだけではありません。祖父母、曽祖父母、先祖がいなかったらその両親もいないのです。親以外にいろんなお世話になった人たち、いや、人だけではありません。食べるもの、住むところ、着るもの、みんな人が作ってくれたものばかりです。もっと言うと、陽射しが、そよ風が、雨が、大地がこの私を育て、存在させてくれているのです。
そうやって考えていくと、この私がここに在るのは、太古からの至上命令というか、避けられない大いなるつながりがあるから、と気がつきます。
そして、そのことは、今日、ここに在る私が、子どもはじめ、次代の人たちに大事なものを残しておく役割が与えられている、ということでもあります。

浄土教のお経の中に阿弥陀さまについて述べられているところを見てみましょう。
阿弥陀さまのみ心、本体は「光」だと示してあります。それはそれはとてもお大きな光です。その光があるから生物は育ち、大きくなっていく。そしてやがて、その生物は子どもを産み、いのちのバトンを次の世代に繋いでいくのですが、そこにはいつも「光」が私どもを包んでくれているのです。阿弥陀さまの「光」は宇宙の「光」です。
もうひとつ、お経の中に「浄土の世界は天の音楽が鳴り響いているところだ」という件(くだり)があります。浄土では光の中、きれいな鳥たちのさえずる声はとても美しく、あたかもほとけさまのお説教に聞こえるそうです。それだけではありません。やさしく吹く風をうけて木々の枝は揺れ、葉づれの音は美しい天の音楽となって聴こえるそうです。浄土は音楽の世界です。浄土ではあらゆる現象はとうとい音となって私どもに確認されていくのです。
浄土は光と音楽の世界、ということができます。

そして最後に、この私どもを包んでくれているこの仏さまの光はいつからの始まったのか、見てまいりましょう。
お経の中には、無数劫という、あずかり知らない天文学的数字の年月をかけて、阿弥陀仏は私一人をすくい取ろう、とみずから光を放って、その光がいま、この私を包んでくれている、とあります。そのとうとい光は、きょうの私のために照らし、この私を包んでくれているのです。
たとえば銀河系の端の星の光が地球上の私のところに届くのに何億光年という年月がかかっていることを考えると、阿弥陀さまの光が無数劫という天文学的年月を経て、今の私に届いている、というのは不思議中の不思議ではありませんか。
浄土の教えを具体的に体で表現するには「念仏をとなえること」につきます。念仏とは「南無阿弥陀仏」という六字の名号を口に出してくりかえし、くりかえして唱えることです。
念仏をとなえることは、そのまま、お浄土の仏さまの光の世界、音楽の世界に抱かれている私の姿をしることなのです。


ではまた次回に。 合掌