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第106話~第120話 第121話~第135話 第136話〜第150話 第151話〜第180話 第181話~第195話
恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。
■第150話:2020年11月
生まれによって卑しい人やバラモンになるのではない
この5月にアメリカ黒人男性が白人警官に暴行され死亡したことを機に、アメリカの人種差別の問題が世界中に広がりました。
私たちのまわりには人種、身分、職業、男女、病気、障害など、様々な差別がみられます。国のあり方として差別をなくしていかねばなりませんが、そもそも私どもの心の中に「差別する心」が潜んでいる、とも言えます。
インドでは紀元前15世紀ころ、アーリア人が北インドに侵攻して先住民を征服しました。このとき、皮膚の色〔ヴァルナ〕の違いによる四つのヴァルナに分ける身分制度を作りました。それが、今も残っているといわれるインドの「ヴァルナ(カースト)階級制度」です。
紀元前4~5世紀に出たインドのお釈迦さまはこの階級制度を否定し、人はすべて等しく差別してはいけない、という平等観を説きました。
そのお経の部分を味わってみましょう。
生まれによって
卑しい人やバラモンに
なるのではない。
行為によって
卑しい人にも
バラモンにもなる
(『スッタニパータ』136)
バラモンとはカースト制度での最高の位で聖職者の位を言います。
先日、次のような投書が朝日新聞大阪版(10月19日)に載りました。投稿者は具教煌(クキョファン)クン。東京に住む12歳の少年です。
ぼくは朝鮮学校に通う6年生です。ぼくが乗ったバスや電車の中では、上着を見て、ぼくが朝鮮人だと知った大人がいやがらせをしてくることがあります。ランドセルの上に自分の荷物を置いてくる人もいました。「小学生が電車で通学するな」と大声で言い、ランドセルをたたいてくる人もいました。
ですが、ぼくが朝鮮人だと知りながらも、やさしく声をかけてくれる日本の方もたくさんいます。どなられた時に、ぼくを守ってくれた方もいました。
朝鮮学校のことを色々聞いてくれたり、帰り道にサッカーをしようとさそってくれて、いっしょにしてくれた人だっていました。ぼくはその時間がすごくうれしくて、楽しかったです。 いやがらせをしてくる人もいますが、ぼくは親切に接しようと思います。そうすれば、いやがらせがなくなる日がくると思います。
相手に対し、どんなときに差別の心や行動が現れるのか、改めて考えてまいりましょう。
それではまた次回に。
合掌
■第149話:2020年10月
希望をなくしても仏様の光はずっと人を照らしている
毎朝、朝日新聞の第1面に掲載される「折々のことば」を読みますが、教えられることの多い楽しみのコーナーです。
上のことばは選者・鷲田清一さんのことばです。
鷲田さんが選んだこの日の「折々のことば」(№.1934)を紹介しましょう。
のぞみはありませんが
ひかりはあります
これはお寺の掲示板にあった言葉を紹介した江田智昭さんの『お寺の掲示板』に載っているもので、臨床心理家・河合隼雄さんが残したジョークから引いた文言だそうです。河合さん、というといかめしい学者というイメージとちがって、いつも笑顔で、大きな口をあけて笑う陽気で庶民的なお顔が浮かびます。
その河合さんがあるとき、終電近くに新幹線の切符を買おうとしたら、駅員がこのように言ったのです。
河合さんはこの言葉の深い含蓄に感激し、同じ言葉を大声で返しました。
すると駅員は、
あっ、『こだま』が帰ってきた
とつぶやいたといいます。
そこで鷲田さんはこの言葉を「希望をなくしても仏様の光はずっと人を照らしている」と解説をしておられるのです。
そういわれて思い起こすのが夢窓国師(嵯峨・天龍寺の開山上人)のお歌です。
雲晴れて のちのひかりと 思うなよ もとより空に 有明の月
仏さまの光は、こちらが見ないだけで、いつもちゃんと光り続けて私どもを照らしてくださっているのです。
それではまた次回に。
合掌
■第148話:2020年9月
がたびし(我他彼此)
彼岸の月になりました。年に二回ある太陽が真西に沈む日で、暦でいえば秋分、春分の日。これを古来、彼岸の中日と言ってきました。
彼岸とはあちらの岸、仏さまの国のこと。それに対して此岸はこちらの岸、私たちの世界です。あちらの岸は浄土(じょうど)で、それに対してこちらの岸を穢土(えど)といいます。心が欲や瞋りで染まっているので「穢」という字を当てます。
穢土にいながら、自分を反省して真西に沈む太陽を拝んでいくと、心が落ち着いていくのですね。
対立する彼の国と此の国とが心の落ち着いた私の中でつながるのです。漢字で並べれば「彼」と「此」。人の関係でいえば私とほかの人とはあい対立する関係ですが、漢字で並べれば「我」と「他」。
このあい対立する二つのものの関係がうまくいっているときはいいのですがうまくいかない時があります。私とあなたがけんかをしているときなんかはそうです。ものでいうと家の中の襖がそうです。鴨居と敷居とが歪んでいると襖はうまく開け閉めできず「ガタビシ、ガタビシ」っていうじゃありませんか。
実はこの「がたびし」。「我」「他」、「彼」「此」、の関係がうまくいかないとき、この四つの漢字を続けて並べると「我他彼此」となります。
自分ファーストで物事を見ていくと心が「がたびし」となります。ですから「がたびし」とならないようにするには対立する相手を認める、ということが一番になりますね。
それではまた次回に。
合掌
■第147話:2020年8月
お盆は手を合わせて
いのちの在りようを尋ねるとき、
己と他者の命のつながりを
感じるとき、
戦争はいけないと
心に決めるとき。
これはお恵光寺の8月の門前掲示です。
「習い、性となる」という言葉があります。毎日同じことを繰り返して続けているうちに、それが自然と身につき、ついにはその人の生まれつきの性質のようになる、という意味です。仏教で「行動が心を作る」といいますが、それに通じます。
この習いを「手を合わせる」と言う点に絞ってみましょう。
少し前まではどのお家にも仏壇、神棚があり、朝起きて顔を洗い口を漱いで仏壇の前で手を合わす、ということが行われていました。
いまはお仏壇のないおうちの人が多いのでこの「手を合わせる」ということが少なくなってきたと思います。食事のときに「いただきます」と言って手を合わせるのが精いっぱいでしょうか。いや、食事のときにも手を合わさない人たちがいたりします。
でも、毎日、どこかで静かに座って「手を合わす」ことを実行してほしいです。「手を合わす」行為は自分の存在の不思議を感じる第一歩だからです。
お寺に来てください。お寺に行ってください。お寺を訪ねてください。お寺に行って本堂で手を会わせる、これを繰り返して習慣化するようにしてください。
仏さまの前で静かに手を合わせて一呼吸をする。自分の心の中にゆとりが生まれてきます、生きる力がでてきます。
いつも紹介する坂村真民さんの詩です。
死のうと思う日はないが
生きてゆく力がなくなることがある
そんな時お寺を訪ね
わたしひとり
仏陀の前に坐ってくる
力わき明日を思う心が
出てくるまで坐ってくる
それではまた次号で。
合掌
■第146話:2020年7月
有漏路より 無漏路へ帰る 一休み
雨ふらば降れ 風ふかば吹け
とんち話で有名な一休さん。禅をそのまま自分の生き方とし,制度や形式を嫌う反骨の人で、奇僧、風狂ともいわれたお坊さんです。6歳で安国寺において出家、13歳で漢詩をものにするほどの逸材で、22歳の時、大徳寺の華叟宗曇の弟子となりました。
その師匠の禅問答のなかで彼は
有漏路より 無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け
と答えたことから、華叟禅師より「一休」の名前を授かりました。
この答えた言葉ですが、有漏路とは迷いの世界、つまり私どもの住む世界、常に移り変わり崩れゆく世界のことです。私たちはその有漏路にいるのですが、煩悩をもっているので、なかなか有漏路から出られず苦しみます。それに対し無漏路は仏法の世界、悟りの世界。迷いのない真実の世界、私たちが悩み苦しむことのない安楽の世界のことです。
一休さんは、私というものは仏の世界からこの世に来て、いずれ間違いなく仏の世界に帰っていくのだ、そのことに身も心もゆだねていけば、あくせくする必要など何もない。たとえ、雨が激しく降ろうともそれはそれでよし、風か吹こうがそれもよし。何があろうとも心は仏の世界にあるのだから、と腹が据わっています。
いまコロナ禍で気が逸るのですが、そんな時、この一休さんの吐いた句をを声を出して言ってみてください。気が大きくなりますよ。
一休さんが今ここにおられたら、やはり「雨降らば降れ、風吹かば吹け!」とおっしゃることでしょう。
それではまた次号で。
合掌
■第145話:2020年5月
ドイツのメルケル首相のスピーチ
この3月18日にドイツのアンゲラ・メルケル首相の「コロナウイルス対策についてのスピーチ」が世界から注目されています。
まず、彼女は人ひとりひとりのいのちが重要だ、と言っています。
(コロナ感染症の問題は)お父さんであり、おじいさんであり、お母さんであり、おばあさんであり、パートナーであり、要するに生きた人たちの話です。そして私たちは、どの命もどの人も重要とする共同体です。
ドイツがコロナ対策で「閉鎖措置をすること」についてはこう述べています。
私は保証します。旅行および移動の自由が苦労して勝ち取った権利であるということを。このような政府の閉鎖措置は絶対的に必要な場合のみ正当化されるものです。そうしたことは民主主義社会において決して軽々しく、一時的であっても決められるべきではありません。しかし、それは今、命を救うために不可欠なのです。
メルケルさんの思いは「人ひとりひとりの基本的人権」が基本です。同じ民主主義を標榜しているわが日本は、基本的人権よりもグローバル経済先行の「閉鎖措置」の感があり、ここは大いに違いますね。
そして、メルケルさんは、国民ひとりひとりの確実な意思によって、人と接触しないことが不可欠だ、それが人への「おもいやり」であり、それが人のいのちを支え合うのだ、と言います。
私たちがどれだけ脆弱であるか、どれだけ他の人の思いやりのある行動に依存しているか、それをエピデミックは私たちに教えます。また、それはつまり、どれだけ私たちが力を合わせて行動することで自分たち自身を守り、お互いに力づけることができるかということでもあります。
一人一人の行動が大切なのです。私たちは、ウイルスの拡散をただ受け入れるしかない運命であるわけではありません。私たちには対抗策があります。つまり、思いやりからお互いに距離を取ることです。
メルケルさんには「人はひとりひとりが平等に尊い」「人は弱いもの」「その弱い者が個人としておたがいをおもいやり、支えあって世の中ができている」という思いがあります。だから「支え合う行動」として、いまは「人とは距離をとれ」といいます。
仏教では「相依相関(そうえそうかん)」ということをいいます。おたがいがおたがいを作りあっている、決してものごとは単独では存在しえない、人も全く同じ、という意味です。
メルケルさんの「人ひとりのいのちが大事」という基本に立脚して、あるべき国のウイルス対応を述べるこのスピーチを読んでいて仏教の「相依相関」と同じ、と思いました。
私ども恵光寺では、檀信徒のみなさまと寺族の安全確保のために、月参りを休止しています。お寺としてみなさんと接触できないことはとてもつらいです。しかし、接触できないからこそ、その見えない「つながり」をいままで以上に意識して生きていこうと、心に決めているところです。
それではまた次号で。
合掌
■第144話:2020年4月
新型ウィルス禍でかんがえる
世界中に広がった新型コロナウィルス禍。日本においても感染者は増えつづけていて、そのために、仕事、移動、学校等、生活の上でさまざまな抑制が求められています。そして、感染拡大の不安、医療崩壊への不安、仕事がなくなる不安、生活が立ち行かない不安、子育ての不安、ほんと、気の重い毎日を過ごさねばなりません。
昔の言い方では「災難」に遭うということです。
しかし、ここはこの「災難」というものを冷静にみることも必要か、と思い、次のエピソードを紹介しましょう。
江戸時代後期に、越後、今の新潟県ですが、良寛さんというお坊さんがいました。年配の方には、子どもたちと手毬やかくれんぼをしたやさしいお坊さん、というイメージで思いおこす人も多いでしょう。良寛さんの真骨頂は人を思うそのやさしさと深さでした。その人柄が今も多くのファンに慕われています。
良寛さんは74歳で亡くなりますが、その3年前の1828年11月18日、良寛さんの住んでいる近くの三条というところでマグニチュード6.9の直下型大地震が起こりました。全壊·半壊家屋21,000軒、焼失家屋1,200軒、死傷者4,600人という大惨事でした。良寛さんは無事でしたが、大変な目に遭っている知人たちに見舞い状を書いています。中でもこの地震で子ども一人をなくした山田杜皐という友人に対してこんな手紙を送っています。
「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
死ぬる時節には死ぬがよく候。
これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」
災難に逢うときには災難に逢え、死ぬときには死ぬのがいい、と言っているわけですから、見舞状にしては何と冷たい、という感じがいたします。しかし、ちがうのです。
良寛さんの伝えたいのは
「みんな辛い、しかし、地震さえなかったら、死さえなかったら、という生き方では恨みしか残らない。生まれて死ぬのは自然のルールなのだ。残ったものも、この私も、同じように死んでいく。みんな、大地に、天に、自然の中に還っていくのだ。そう信じることができれば、前向きに生きることができよう」
ということです。良寛さんは実際、すぐに被災地現場に行ってこんな歌を詠んでいます。
「かにかくに 止まらぬものは涙なり 人の見る目も偲ぶばかりに」
と。災害現場で見る光景に涙が止まらない、歳をとったこの私が死なないで生きているなんて、と嘆く良寛さんの姿と心の内を想像してほしいです。
私どもも、災難に遭って大変な目にあっている人のことに想いを巡らすようにしましょう。そして「死」というものについても。
「死」とはいのちが終わることですが、いのちが終わることはそのまま、次のいのちを生む基になっている、という見方が大事です。その見方をしゅうかんかしていけば、明日生きる力が生じてくると言えます。
それではまた次号で。
合掌
■第143話:2020年3月
過ぎしを捨て 来らんをも捨て 現在をも棄つべし
これはお釈迦さま(ブッダ)のことばです。私たちの「こころ」はまいにち変化をしています。してしまった過去のことを後悔し、未来のことをああでもないこうでもないと不安に思い、そのために今を悩んで過ごしている、そんな「心」の変化を経験しながら日暮らしをしている私どもです。
気分がよかったり、落ち込んだり、今日は〇、昨日は×、というふうに、私どもの心はものがくるくると回るように、悩みがくるくると回っています。ですからこの悩ましい「こころ」のことを、くるくる回るという意味で「輪廻」と呼んでいます。「輪廻」というと死後の生まれ変わりのことのように思いますが、仏教では自分の心がころころと変わって悩んでしまう状態をいいます。「心」とは「ころころと変わるからこころという」といいますが、それが輪廻です。
それではどうすれば輪廻から離れることができるでしょうか。どうすれば悩まないでいることができるでしょうか。
ブッダはきっぱり「過ぎしを捨て、来らんをも捨て、現在をも棄つべし」とおっしゃっています。つまり「そういう過去について悩む心、未来について悩む心、いまそのために悩んでいる心、これをことごとく捨てなさい」というわけです。
そしてブッダは、その「悩む心」の基は「執着」にある、といいます。「執着」とは自分の考えが正しい、自分の方法で行くのだ、と思い込むことです。人の意見よりも自分の物差しを振り回す心です。そこには相手を思う心も出てこないし、つまるところ、自分一人が、過去、未来、現在について悩まなければならないのです。
仏教はこういうとき、「あなたは周りの人たちを信じなさい、相手を許しなさい、相手はちゃんとするから待ちなさい」と一息つくことを勧めます。そして「ほとけさまに手をあわせてお任せしなさい」というのです。
ブッダは「過ぎしを捨て 来らんをも捨て 現在をも棄つべし」の後にこう続けて下さっています。
「そうすれば、生きていながら彼岸(心の安心の世界)にいたれるなり。この悩みから解放され、生と老い(輪廻)の苦しみを二度とうけなくなるであろう」と。
それではまた次号で。
合掌
■第142話:2020年2月
話の受け応え 「そやけど」より「そやなぁ」がええ。
今回のタイトルは関西弁です。誰かとの話の受け応えの場面です。
たとえば、母親と高校生の子どもが話しているところなんかどうでしょう。
子どもが「お母さん、ボクも高校生やから、一人で旅行に行ってみたいよ」とお伺いを立てるとしましょう。それを聞いたお母さんは「そやけど、あんた、まだ高校生やろ」と言います。そこで子どもは「アルバイトでお金を稼ぐから」という。今度は「そやけど、勉強はどうするの?」「ちゃんとするから」。「そやけど、今学期の成績、よくなかったよ」と次から次に「そやけど」がでてきます。
ここは親が子どもの一人旅行に行きたい気持ちを汲み取ってほしい場面ですね。
子どもは高校生になって独立心が芽生え、新たな世界にあこがれる気持ちが出たのか、一人旅行を口に出したのです。そのために親は「そやけど」とはいわないで「そやなぁ、あんたも高校生になって一人旅行がしたい、のやねぇ」、と「そやねぇ」という言葉で会話を続けていきたいものです。
仏さまのお顔を思いおこしてください。仏さまのおん眼は「半眼」といってこちらから見ると薄目のように見えます。「悪いものは見ない、いいものだけを見ようとしている」から仏さまのおん目は細いのです。仏さまのお口はおちょぼ口で小さいです。「いいことばを選んで言おう、悪いことばは言わないようにする」からです。仏さまの耳たぶは大きく垂れ下がっています。これは人の話をしっかり聞こえるように」という仏さまのお慈悲の心がそうさせているのです。
相手に「そやけど」と言うときは、総じて、自分の思いを相手に押し付け、了解させようというときです。
ところが「そうやねぇ」と言うときは、自分の耳が仏さまの大きな耳のようになって、相手の話を聞き、相手の気持ちも受け止めようとしている姿です。そこに二人の間の信頼関係が強くなるのだと思います。
それではまた次号で。
合掌
■第141話:2020年1月
ことばが毒になったり薬になったり
仏教では私たちがつくる悪い行いを「十悪」として戒めます。そしてその「十悪」は三つのはたらきから出るとし、その三つは「身体のはたらき」「ことばのはたらき」「心のはたらき」とします。
たとえば「ことばのはたらき」ででてくる行いとして「うそをつく」「悪口をいう」「お世辞をいう」「二枚舌をつかう」があげられます。
この悪いことばは、自分が正しい、人に悪く言われたくない、という心がおこったときに発せられるわけで、発する方はいいかもしれませんが、そのことを聞いた方は傷つきます。
以前にも紹介したことがありますが、朝日新聞の朝刊1ページには毎回、鷲田清一さんの執筆になる「折々のことば」というコラムが載ります。量は少ないのですが、これがまたキラッと光るコラムなのです。
朝日新聞ではこのコラムにならって、年に一回、中学・高校生に「あなたの心に響いた《ことば》と、そのエピソードを教えて」、と『私の折々のことばコンテスト』が行われます。去年は5回目で、このお正月にその結果が発表されました。
今回の第5回コンテストには全国の中高生から24,998もの作品が集まったそうです。すごいですね。その中で「鷲田清一賞」に輝いた作品を紹介します。
ことばぐすりをありがとう =おばあちゃんのことば =
「また来るね」。そんな私の何げないことばが、入院中の祖母の「薬」になっていたと知らされた。ことばは、
人を傷つける「毒」になるだけではない。「薬」にもなると意識した。
東京八王子の中学3年生、清水彩日夏(あすか)さん
彩日夏さんはことばが毒になる、という経験をいっぱいしているのでしょうね。お母さんと言いあったり、友だちとケンカしたりして、その都度、きついことばを発してしまう、相手だって、きついことばでこちらに返してくる、ことばは人を傷つける毒なんだ、と知っているわけです。
あるとき、おばあちゃんが体調が悪くなって入院をしてしまった。彩日夏さんはおばあちゃんの様子を見に病院へ行き、おばあちゃんとお話をしてくる。おばあちゃんにとってはかわいい孫が来てくれたからとてもうれしい、帰り際、彩日夏さんがおばあちゃんにむかって笑顔で「また来るね」という。おばあちゃんは、孫のあのやさしいことばは「薬」だ、とお母さんに言ったのでしょう。お母さんはそのことを喜んで、彩日夏さんに伝えると、彩日夏さんは「何げないことばが薬になる」と気づいたのです
ことばは人を傷つける毒になるけれど、逆に人を喜ばせる薬になる、という発見だったのです。
それではまた次号で。
合掌
■第140話:2019年12月
兵戈無用(ひょうがむよう)は仏さまのねがい
「災励不起 国豊民安 兵戈無用」という言葉がお経(『無量寿経』)の中にあります。読み下せば「災害は起こらず、国は豊かで、人の心は安定し、兵器は無用だ」ということです。ではなぜ災害は起こらず人心は安定するのか、お経の文句はその前段で「天下和順 日月清明、風雨以時」つまり「天地の運行が和順で、日も月も清らかで明るく、風や雨はその時々に応じて起こる」といっています。
つまり、天地の運行が自然で調和を保っていると、太陽も月も清らかで明るいし、風も雨もバランスよくやってくる。そんな世界にいると災害はないし、人々の心はつねに安らかで、戦争は起こらない」と読むことができます。これ、2000年以上も前のお釈迦さまのお言葉で、仏さまのねがいを言ったものです。
今の時代を言い当てているように聞こえます。
今の時代、人びとの飽くなき欲は地球環境を温暖化させ、その気候変動にのために今までなかった大型の台風が発生し、雨や風は想定外に私たちに襲いかかり、毎年たくさんの人が亡くなり、被害も甚大になってきています。それに加えて、人びとの心は、今さえよければいい、とばかり、国益の名のもとに経済競争に躍起になり、つまるところ戦争を生んでいきます。地球の環境、人びとの生活は心身ともに追い詰められて来ています。
こんな状況の下、国連は環境問題、人びとの貧困、差別など、将来が見越せない状態にある、何とか歯止めをかけなければ、と2015年に「持続可能の発達目標(SDGs)」を定めました。
折しもこの11月下旬、ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が来日。長崎・広島で、福島避難者との面会などの場でメッセージを発しました。教皇は「戦争のために核を利用することは犯罪」「核兵器は安全保障への脅威に関して私たちを守ってくれるものではない」「原子力を戦争目的のために使用することは倫理に反する」「軍備拡張競争は貴重な資源の無駄遣い」「真の平和とは非武装の平和以外にあり得ない」と核兵器・武力による戦争反対を表明しました。今回の教皇を迎えての長崎、広島の集いには森川天台座主、江川日本仏教会会長、大谷本願寺派門主など日本の仏教指導者、他宗教指導者もたくさん参加しました。
まさに今の時代にあって宗教者のねがいは戦争に反対し、戦争の勃発を未然に止めることにあります。その思いを教皇が日本の国から世界に訴えました。
ところが、この教皇来日の少し前に、平和憲法のあるわが日本で初めて武器見本市が千葉県の幕原で「盛大に」行われました。日本の防衛相が応援をして、つまり国家が支援しての開催です。日本の国を挙げて武器を世界に売り込もう、というイベントです。こんなこと、あってはならないことです。それが、教皇来日と重なるようにして行われたことも皮肉なことです。
最初に紹介したお経をもういちど見てください。地球環境を悪くしてきたのは私どもの欲であり、他国よりも優位な立場に立たないとそれが実現しない、そのためには戦争をちらつかせねばならないという、今の動きです。より精巧に、遠隔操作で使われる多種の武器を売る「死の商人」が日本にたくさん増えてきている事実を見逃してはなりません。
宗教者は世界の平和を願っています。みなさんといっしょに戦争のない世界、武器を使わない世界、「兵戈無用」の世界を目指してまいりましょう。
それではまた次号で。
合掌
■第139話:2019年11月
お天道さんが見たはるよ 罰が当たるよ
先月は、国連の気候行動サミット席上で16歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが「地球環境を悪くするのは経済成長のためなら何でもする、というあなたがた、今のおとなたちです。そして被害をこうむるのは次代の私たち。許さない!」と訴えた、というお話をしました。
今の世界は経済成長という「欲」をあからさまに前面に出して動いています。
確かに、私どもには生存するうえで「欲」は必要です。しかし「欲の灰汁抜き」を心がけねばなりません。
「欲は出したい、でもここはガマン」という清らかな心を持ちたいものです。そんな時、理屈ではなく、心の中で立ち止まらせる何かがあるような気がします。
「そんな欲ばり、お天道さんが見てますよ」
といわれた経験はありませんか。
自分が欲の心をもったとき、その欲を通していいか、それはいけないか、迷うとき、こんな言葉に出逢って心が揺らぎます。実はこの「揺らぐ心」こそ心が健全である証拠、といえるでしょう。
人はひとりで生きているのではありません。ほかの人とのつながり、バランスの中で生かせてもらっています。ですから自分だけがしたい放題することは許されません。欲にブレーキをかける心の働きが必要です。
私の母は何かすると「仏さんが見たはるよ」といっていました。そのことばのお陰で、自分なりに欲のコントロールをしよう、としてきました。
私の友人のお坊さんは小学学校に行くとき、必ずおばあちゃんが玄関まで見送りに出てきて「お前の頭のうしろ、肩のところに仏さんがいつもくっついたはるんや。そやから悪いことしたらあかん」といわれた、といいます。ですから、その友人は、そのことが気になって、朝、学校に行くのに自分の肩に仏さんがくっついているのはかなわないので、家を出るなり思いっきり走り出して、四つ辻などへ来ると、その仏さんを振り落とそうと、急に体をひねって角をまわった、と言っていました。
目に見えない、何か神さま、仏さま、お天道さま、に見られているという思いは生活の上で重要だと思います。またあるときは、それが「罰が当たる」という言い方でセルフコントロールしていたこともあります。
「欲を出しすぎたから罰が当たった」といいます。欲を出したことと失敗したこととの因果関係などわかりません。それでも悪いことがおこると「罰が当たる」といい、いい結果になると「ほとけさんのおかげ」と教えられたものです。
それではまた次号で。
合掌
■第138話:2019年10月
いのちは繋がっているもの
今、気候変動の危機が叫ばれています。地球温暖化対策の国際ルール・パリ協定のスタートを来年に控え、国連では気候行動サミットが開かれました。ここであの16歳の少女が登場しました。いわゆる金曜日には学校に出ないで環境問題を訴えているスウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリさん(16)です。彼女は国連の会議の席上、各国代表を前に「私たちは大量絶滅の入り口にある。でもみなさんが口にできることといえば、お金のことと、経済成長は永遠に続くというおとぎ話だ」「若者はあなたたちの裏切りに気づき始めている。もし私たちを見捨てる道を選ぶなら、絶対に許さない」と厳しい口調で訴えました。
今のまま、大人に任せておけば、大人はしたい放題、将来に「とりかえしのつかない事態」がおこる、というのです。
16歳の少女が憤りをもって訴えた言葉は、「いのちは繋がっている」ということです。大人が地球を温暖化にしてしまえば、そのつけは子どもたち、未来の人たちにまちがいなく回ってくる、とりかえしがつかないところまで来ている、と訴えています。なぜ、大人はそんなにまでして地球環境を悪くするのか。グレタさんは「お金のこと、経済成長へのおとぎ話」と断言しています。全くその通りです。
今、環境問題といえば、地球温暖化だけではありません。マイクロプラスチックごみの問題、食品ロスの問題、原発もそうです。これはひとえに「自分の時代は便利でお金になる商品を作ればいい」という自分勝手でできたものです。
今や、悪化した地球の環境を正すのには、考え方として「いのちは繋がっている」という思いをいろんな場面で示すべきです。
私たちのいのちは私たちだけの一生で終わるものではありません。私たちが作ってしまったものはいいものであれ、悪いものであれ、遺産として未来の子どもたちに遺されていきます。
「あなたのいのちはあなたの生きている間だけのことですか」と問いかけられれば、あなたはどう答えますか。「いのちは永遠に続く」と答えられますか。仏教では「寿(いのち)は永遠であり、また光(ひかり)も永遠であるといいます。寿は時間、光は空間のことを表します。私たちは永遠の時間と永遠の空間のその交わったところに居させてもらっているのです。このことをしっかりと気がつかなければなりません。
「死んだ後は野となれ山となれ、私の知ったことではない」という生き方を今の世の中はしているのではないでしょうか。次の世代に大切ないのち、宝物を残していく、つないでいく、これが、いま私どもがしなければならないことです。これをしなければ「とりかえしのつかない事態」になってしまいます。
それではまた次号で。
合掌
■第137話:2019年9月
歳をとるほどに学ぶ姿勢が大事
聞くことの少ない人は、
牛のように老いる。
かれの肉はふえても、
かれの智慧は
ふえることがない。
『ダンマパダ』 152
『ダンマ・パダ』は仏教の論語ともいわれ、26品423句で出きています。どれも短く覚えやすく、現代に通じる内容がとても多いのです。
この152番は「老耄」という品の中にあります。「聞くこと」とは「学ぶこと」に置きかえて、年をとって学ぶことが少ない人はただ牛のように年をとっていくだけで、智慧がふえない、と読みましょう。
「学ぶ」ということばは「真似る」からきているそうで、他の人のしているいいところを見つけては真似をしてみよう、と思う、それが学ぶということです。年を取ると人のいいところがなかなか見えず、人の悪いところばかりが気になって、一人で腹を立てたりするものです。
智慧はものごとの表面や現象の背後にある道理を見極めることを言います。病気でつらい思いをしている人に「あなたの病気、大したことないからがんばりなさい。」なんて励ましのつもりで言う場合があります。それに対し、智慧ある人は「つらいでしょうね。」と病気でつらい思いをしている相手の心の中はどんなのか、洞察しようとします。
陽射しやそよ風に育てられている、見えないいのちにこの私が見守られている、など、日常のいのちのありようを学ぼうとする人は、年をとってもどこか凜としていて立ち居振る舞いもちゃんとしているものです。
ではまた次回に。 合掌
■第136話:2019年8月
こんな私が 光の中につつまれている存在です
私たちの日常を考えてみましょう。毎日忙しい、あれをしなければならない、これをしなければならない、と時間に追われています。家の中では子どもにはああしなさい、こうしなさい、お年寄りにはそれをしてはダメ、大丈夫ですか、仕事では、なぜ私の言うことを聴いてくれないのか、などなど自分の「我」が出る、といえばいいのでしょうか、ストレスをかかえこむの日常です。
そんな時こそ、ふだん考えない「自分はどんな存在なのだろうか」を考えてみることも必要です。
そもそもこの私がここにある、というのはどういうことでしょうか。なぜこの私がいま、ここに在るのでしょうか。誰のおかげでここに存在しているのでしょうか。
私がここに在るのは、近くは両親が生んでくれたからです。でもそれだけではありません。祖父母、曽祖父母、先祖がいなかったらその両親もいないのです。親以外にいろんなお世話になった人たち、いや、人だけではありません。食べるもの、住むところ、着るもの、みんな人が作ってくれたものばかりです。もっと言うと、陽射しが、そよ風が、雨が、大地がこの私を育て、存在させてくれているのです。
そうやって考えていくと、この私がここに在るのは、太古からの至上命令というか、避けられない大いなるつながりがあるから、と気がつきます。
そして、そのことは、今日、ここに在る私が、子どもはじめ、次代の人たちに大事なものを残しておく役割が与えられている、ということでもあります。
浄土教のお経の中に阿弥陀さまについて述べられているところを見てみましょう。
阿弥陀さまのみ心、本体は「光」だと示してあります。それはそれはとてもお大きな光です。その光があるから生物は育ち、大きくなっていく。そしてやがて、その生物は子どもを産み、いのちのバトンを次の世代に繋いでいくのですが、そこにはいつも「光」が私どもを包んでくれているのです。阿弥陀さまの「光」は宇宙の「光」です。
もうひとつ、お経の中に「浄土の世界は天の音楽が鳴り響いているところだ」という件(くだり)があります。浄土では光の中、きれいな鳥たちのさえずる声はとても美しく、あたかもほとけさまのお説教に聞こえるそうです。それだけではありません。やさしく吹く風をうけて木々の枝は揺れ、葉づれの音は美しい天の音楽となって聴こえるそうです。浄土は音楽の世界です。浄土ではあらゆる現象はとうとい音となって私どもに確認されていくのです。
浄土は光と音楽の世界、ということができます。
そして最後に、この私どもを包んでくれているこの仏さまの光はいつからの始まったのか、見てまいりましょう。
お経の中には、無数劫という、あずかり知らない天文学的数字の年月をかけて、阿弥陀仏は私一人をすくい取ろう、とみずから光を放って、その光がいま、この私を包んでくれている、とあります。そのとうとい光は、きょうの私のために照らし、この私を包んでくれているのです。
たとえば銀河系の端の星の光が地球上の私のところに届くのに何億光年という年月がかかっていることを考えると、阿弥陀さまの光が無数劫という天文学的年月を経て、今の私に届いている、というのは不思議中の不思議ではありませんか。
浄土の教えを具体的に体で表現するには「念仏をとなえること」につきます。念仏とは「南無阿弥陀仏」という六字の名号を口に出してくりかえし、くりかえして唱えることです。
念仏をとなえることは、そのまま、お浄土の仏さまの光の世界、音楽の世界に抱かれている私の姿をしることなのです。
ではまた次回に。 合掌