恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第158話:2021年7月

お盆ってなぁに? ご先祖さまにご接待

お盆は「盂蘭盆(うらぼん)」という仏教からきた夏の行事で、単に「お盆(ぼん)」と呼ばれます。もととなったお経は『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』です。
目連(もくれん)というお釈迦さまの弟子が、餓鬼道(がきどう)という苦しい世界に堕(お)ちた亡き母を救おうと、お釈迦さまに教えを請い、施食(せじき)の作法(あらゆるものに食を与える修行)によって、7月15日、つまり旧暦の8月15日に母親が救われた、というお話からきています。
お盆はご先祖さまのお迎えから始まります。とくに8月7日は「七日盆(なのかぼん)」と言って、このお墓参りが「精霊迎え(しょうらいむか)」の日、といわれています。ここ市原の恵光寺は8月7日が墓参り日、となっていますが、こういうわけだったのでしょう。
そして、実際にご先祖さまを自分のお家にお迎えするのが8月12日の夕方、といわれています。すでに亡くなってお浄土に生まれておられる親族みんな、おじいさんやおおばあさんもおられれば、幼い子どもたちもいます。また、この世の空気を吸わず、お母さんのお腹の中で亡くなった赤ちゃんもいるでしょう。そういう「ご先祖さま」をお精霊さんとしてお盆に我が家にお迎えをして食事の接待をする行事がお盆です。お盆にお迎えしたお精霊さんには精霊棚に盛ったお菓子、野菜、果物、そうめん、などで供養します。そして16日の朝にはお送りする、というのが習わしです。
お盆の間に、その精霊棚の前でお坊さんにお経をあげてもらうのを「棚経」といいます。
私の家には仏壇がないから精霊迎えはできない、ということはありません。先祖のいない人ってこの世にはどこにもいません。この8月のお盆の期間、お家のどこの場所に、亡くなった人の写真を飾ってお供え物を捧げて頭を垂れて手を合わす、ということはできると思います。手を合わせ、亡き人からいただいたご恩に思いを廻らせてみましょう。
お精霊さんにお給仕をしながら、いのちの恵みに感謝ができる、そうなるとありがたいですねぇ。

ではまた次回に。

合掌

■第157話:2021年6月

掃除をする、草を引く、ということ

お寺では昔から「一に掃除、二に勤行、三に学問」と言って僧侶の日課の行動を示しています。
勤行とは、仏さまの前でお経をあげることです。学問はそのお経の意味や内容、そして先師が説いた教えを学ぶこと、つまりしっかり仏教の勉強をすることです。そういう勤行、学問は必須のことですが、それ以前に、日課としていちばんにしなければならないのは毎日の掃除だ、というのです。
私は僧侶ですから「一に掃除、二に勤行、三に学問」ということは知っていますが、なかなか実行できていません。
とくに掃除はしなければならないことは百も承知ですが、日課とはなかなかなりません。事の合間にするもの、という感じです。

しかし、ここで思うのが幸田文さんという作家の随筆のお話です。
 幸田文さんはあの作家・幸田露伴の娘さんです。ある時、父の露伴さんが部屋から外の庭を見て、草が生え出しているのを見て文さんに「庭の草を引け」と命じます。文さんは「まだ草は小さいからもっと大きくなってから引きます」と答えました。するとお父さんの露伴さんは「今、草を引け! いまだ!」と厳しく叱ったのです。文さんはこのお父さんの草引きに対する厳格な姿勢が心に残り、随筆に遺しています。
 露伴さんは文さんに「今、草を引け」といったのは、今の芽を出したての草がいちばん引きやすいときなのだ、今を逃すな、といっているのです。

 私たちがことをしようとする時、いつも自分の都合、自分の物差しでことを行おうとします。しかしこの草の成長でわかるように、自分の都合というよりも、自然が与えたその時機というものに自分を合わせる心が必要なのです。いま引いておくと草はとても引き抜きやすい、時間もかからない。それを感じておのれの我を捨てて自然の営みの中に身を任せていけ、ということです。
 自分の物差しで行動を推し量っていくことを「我を張る」といいますが、その「我」を捨てて大いなる自然の営み、自然界の物差しに身を預けていくのです。そうすれば、こうしなければならない、こうならないのでつまらない、と言うような屈託はなくなっていくではありませんか。
草引きに代表される「掃除」という生活の仕方は、「我」を捨てよ、という仏さまの教えをまずは体で感じることなのです。
お経を読んだり、学問をする以前に体が覚える仏さまの教えですから「一に掃除」というのです。

ではまた次回に。

合掌

■第156話:2021年5月

≪病気≫ を診るのではなく ≪人≫を診る

私はいま、高齢者のケアをする老人健康保健施設にかかわっています。4月は新入社員が入ってくるときで、人社式のとき、こんなお話をしました。
「施設でケアをする相手の方は、お年寄り、体の調・不調を訴える人たちです。こういう方々に接するとき、介護をするみなさんは、その人の外見だけではなく、その人はどんな人なのか、長い人生を生きてこられていまどんなことを考えておられるのか、その人の「人生の物語」を知ろうとする想像力を大し事にしてください」とお話ししました。

いまの日本、ホスピス、ビハーラ、緩和ケア、などとよばれる、人生の末期の人のための病棟を持った病院がふえつつあります。
細井順というお医者さんがおられます。大学病院で外科医として働いていたとき、末期の人や家族にどう接すればいいか悩みました。本を読んだり、研究会に出席するようになりました。あるとき、その思いが高じて、大学病院の教授に「亡くなった患者の遺族を追跡調査してみたい」と提案したところ、教授から「外科医にとって必要なのは、そういうことではない」と一蹴されたといいます。細井さんの思いは外科教室の一般的な考え方とは相容れなかったのです。
そのうち、大阪の淀川病院でご自身のお父さんをホスピス棟で送ります。その経験から、みずからホスピスの専門医となろう、と決心し、滋賀県の近江八幡市にあるヴォーリズ記念病院へ行ってそこでホスピス棟を立ち上げます。
細井さんは「ホスピスというのは、みんなで力を合わせて患者さんのケアをする。その和気あいあいとした一体感が心地よかった。自分中心の世界から、ほかの人を生かそうとする世界への大きな転換でした」
末期の人に対し、医師だけでなく、まわりのひとたちが、その人の人生の物語をいっしょに考えながら寄り添う、このことが大事だ、というのです。

細井順さんご自身、腎臓がん手術を受けたがん患者です。その経験から
「自分は医者の時代、《病気》だけを診ていた。自分の役割は患者の側にいてつらさを分かち合うことと悟った今、自分は《人》を診ている実感がある」とおっしゃっています。そして医者のユニホームである白衣は着ない医師として末期の人たちに接しています。

お釈迦さまは人の悩みを聴いてその答えを出すばあい、対機説法というしかだでお話をされました。対機の「機」は目の前の人のことです。つまり、その悩みのことがらについての説法ではなく、相手の≪人≫をみてお話をされた、というのです。

ではまた次回に。

合掌

■第155話:2021年4月

仏教の苦から離れる方法 二つ

「人生は苦である」といいます。人生はつらい、苦しいもの、という意味で使います。しかし、仏教がいう「苦」はインド古代語の「ドゥフカ」の訳で「自分の思い通りにならない」ということです。
私ども人間の「生・老・病・死」を「四苦」といいますが、ブッダ(お釈迦さま)は「生まれること、年をとること、病を得ること、そして死ぬこと、この四つについては自分の思い通りにはならないことなのだ。しかし、悲しいかな、それを思い通りにしようとして悩み苦しむのだ」と看破されたのです。
私たちの日常を見てみましょう。自分の思い通りに行っているときは機嫌もいいし、楽しいし、幸せ感もあります。しかし、自分の思い通りにならないことにぶち当たると、焦ったり、自分を責めたり、人を悪くいったりします。それが、生きる不安、苦しみになります。
ではどうするか。
仏教の歴史で、「苦」から離れる方法に、大きく二つの道があります。ならべると次のようになります。
(1) 悪いことはせず、善いことをして心と行動を調えて苦から離れよ
(2) 私どもはいくら頑張っても苦から離れられない身。心底、仏に任せよ
(1)はその通りです。お釈迦さまの仏教の基本です。仏教の教えを生きようとする人は、この言葉を「生き方の基本(戒)」として苦から離れようとします。つまり「悪いことはするな、よいことをせよ。自分の心を清らかにせよ」というものです。心の乱れる環境にいるのなら、そこから離れて生活せよ、ということです。正しいのですが、できる人とできない人があります。
それに対して後者(2)は「いくら頑張っても苦から離れられない身」(「凡夫」といいます)という見方が基本にあります。だから、凡夫である私をつねに「救う対象」としてみていてくださるほとけさま(阿弥陀さまのことです)がおられる、だから「私は苦から離れることのできない凡夫」と開き直って、その心中を吐露して、阿弥陀さまの「私に任せよ」を心の柱として生きる方法です。
おわかりのとおり(2)の生き方、凡夫であるがゆえに救われる、という喜びが「念仏」という形に表れるのです。
ややこしい話をしましたが、凡夫である自覚、これもなかなか100パーセントできないのですね。これがまた凡夫たるゆえんです。
『「苦」は頭で考えても離れることができない、つねに己の体内に巣くっているもの』と開き直る「凡夫観」を持つことは私どもには必要です。

ではまた次回に。

合掌

■第154話:2021年3月

運動不足よりも感動不足が心配

コロナの時、家のなかで巣篭り状態が続き、体を動かす機会が減っています。みなさん、体の調子はいかがですか。中には、こんな時だからこそ、しっかり歩くようにしている、という人もおられるでしょう。どうぞ運動不足に気をつけてお過ごしください。
日野原重明というお医者さんがおられました。聖路加病院の理事長で105歳でなくなられるときまで現役でした。日野原先生は「生活習慣病」という言葉を提唱して人間ドックを始め、病気予防に力を注いだ人でした。また、子どもたちに「いのちの授業」をおこない、「時間はいのちです。あなたが持っている時間をできるだけ人のために使いましょう」と教えて回った人です。
その日野原先生が高齢者の健康について「運動不足よりも感動不足が心配」と言っておられました。
体調は運動だけでなく心の動き、まさに感動も大事だということです。
感動は、偉大な自然の営みに、花鳥風月に、音楽に、絵画など、接したものに心が動くことです。
人の行いの中にも感動の場面はいっぱいあります。親が子を育てているのを見ていると、親の恩情はかくもすばらしいことか、と感動することがあります。
感動は脳を柔らかくし、心をゆたかにします。心がゆたかになると脳が柔らかくなって感動する回数もふえていきます。そして感動を繰り返していくと人生も新しく前向きに変わっていきます。感動をする場面を見つける心の習慣をつけてまいりましょう。

ではまた。

合掌

■第153話:2021年2月

自分のいのちがあるのは親が原因か

コロナ禍でつらい巣ごもり生活が多くなります。今回はじっとしている時間がおおくなったことで「自分のいのちはどこから来たのか」を考えてみよう、という提案です。
私たちは「いのち」は親から来た、つまり「親を原因としてこの世に生まれてきた」と思っています。しかし仏法はちがう答えです。
仏法では「親を縁としてこの世に生まれてきた」といいます。確かに私のいのちは親が原因です。しかしその親には親があって、その親にはまた親があって……、ということですから、直近の親はいのちの「長い時間の縁」、つまり縦のつながりの一部分、と見るのです。

そして「長い時間の縁」に対して「空間の縁」、つまり横のつながり、というのがあります。これを説明するには「食物連鎖」がわかりやすいです。食物連鎖とは一つのいのちは他のいのちによってつながっている、ということです。
環境学者のタイラー・ミラー(1902 –1988)は
ひとりの人間が1年間生きるためには、300匹の鱒が必要。その鱒には9万匹のカエルが必要で、そのカエルには2700万匹のバッタが必要で、そのバッタは1000トンの草を食べなくては生きていかれない
といっています。

今あるこのわたしの「いのち」は、あらゆるいのち、時間的にも 空間的にもいろんないのちとつながっています。一つのいのちはあらゆるものを育て、あらゆるものはこのわたしというひとつのいのちを生かして存在しあっている、ということです。
これを仏法では「山川草木悉有仏性(さんせんそうももく しつうぶっしょう)」といいます。山や川、そして草木に至るまで、あらゆるいのちはつながって、この私一人の「いのち」を作ってくれている、といいます。このつながるいのちに感謝し、喜びの心で享け入れるとき、そのあらゆるいのちには仏の慈悲、つまり「仏性」がある、と頂くのです。
今日は「いのちはどこから来たか」というお話をさせていただきました。

ではまた。

合掌

■第152話:2021年1月

梅華の香は 苦寒より来る

中国では梅は特別に高貴な花とみられるそうですが、日本でもそうですね。
年初めの寒中に小さくとも美しく咲く梅は見事ですし、その香りは馥郁として心を豊かにしてくれます。
今回紹介した言葉は、その梅の花は厳しい寒さに耐えてこそ、寒ければ寒いほど、香りは素晴らしい、という意味です。転じて、苦寒に堪えてこそ人生の勝利者になる、というふうに人生論としてよく引用されます。
しかし一歩進めて考えてみましょう。
おおよそ生き物はみなそうですが、いまこの梅の場合でいえば、苦寒を通して花を咲かせ、芳しい香りを出し、風やうぐいすなどの鳥が来て受粉が行われ、実を大きくし子孫を残します。梅にとって苦寒はつらいことではありますが、いってみれば自然の法則であります。
人生訓で言えば苦寒は人を育てるムチだ、ということができますが、そもそも苦寒はムチではなく、梅を育てるための宇宙の慈悲であり愛である、といえます。
コロナ禍の中での生活。巣ごもりでじっとしがちです。となると運動不足にもなります。できるだけ体を動かすようにしましょう ここでもう一つ大事なのは運動不足だけでなく、巣ごもりでは感動不足にもなりがちだ、ということです。
梅一輪の花を見ながら、宇宙の慈悲を確かめて感動不足をなくすようにしましょう。これからの一月が過ぎ立春の時期になると 梅 一輪 一輪ほどの あたたさ
という句も心に響いてきますよ。

それではまた次回に。

合掌

■第151話:2020年12月

地球は 子孫からの 借りもの

この言葉はネイティヴアメリカンの、つまり、アメリカ先住民が生活の中で作り出したすばらしいことばです。 アメリカにはコロンブスが上陸するまで何千万の先住民がいて、あの広大な自然の中で農耕、遊牧の生活をしていました。彼らは自然の運行や宗教的なものにとても敏感でした。そこへ、ヨーロッパから白人たちが新天地を求めて移住してきました。彼ら白人たちは白人中心の生き方で騎馬、銃、機械を使って先住民の土地を奪い、領土を広げ、先住民を追いやってしまいました。そんな悲しい歴史のあるネイティブアメリカンの社会でいわれた言葉を紹介します。  

「地球は 子孫からの 借りもの」。この言葉には仏教の教えと共通のものがあるように思います。仏教は「縁起」を説きます。つまり「世の中は縁起で成り立っている」という受け取り方があります。
「縁起がいい、悪い」というあの「縁起」ですが、本来はもっと深いことばです。「縁起」とは読んで字のごとく「縁(よ)りて起(お)こる」です。
花が一輪咲くのはどうしてでしょうか。水によって、土によって、温度によって、空気によって咲くわけです。花だけが単独で咲くことはあり得ません。すべての存在はそのように、ほかの力と関係しあっていま形あるものとして存在します。ですから、周りの力が変わるとその形も影響を受けて変化をします。この変化を「つながりあっているから」と言いかえるとわかる気がいたしますね。 さてその「つながりあっている」には時間的なつながりと空間的なつながりがあります。

時間的なつながりとは、「私のいのち」は親、祖父母、祖先と「つながりあって」います。そして将来の「いのち」、つまり子孫のことですが、この子孫は今日の私たちのいのちの先にあるものです。これが時間的なつながりです。
空間的なつながりとは、わかりやすい例は食物連鎖です。土の中の微生物を食べて小さな虫は大きくなり、その小さな虫を少し大きな動物や鳥が食べ、その少し大きな動物や鳥を大きな動物が食べます。みんなのいのちがつながっています。
私たちの存在は、前にも、後ろにも、過去にも将来にも、みんな、つながりあって在るのです。ですから、どこかでおかしなことが起こると、次から次へとおかしい状態でつながっていきます。これが「縁起」です。

そう考えてみると、前後のいのちをちゃんとしようとするには今の私がちゃんとする、ということに落ち着きます。今日、紹介しましたネイティヴ アメリカンのことばでいえば、きれいな地球を残すのは今日の「今、ここにある、この私が」ちゃんとすることがいちばんである訳です。
今の地球をわがものとは思わず、将来の子孫たちから借りている、と考え、将来がいい地球の状態になるよう、お返ししようという気持ち、生き方が、今日の私どもの姿勢であるべきだ、というのです。

それではまた次回に。

合掌