恵光寺 和尚の法話

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恵光寺の宗旨は浄土宗西山禅林寺派で、阿弥陀さまのお慈悲を感謝し、その喜びを社会奉仕につないでいく、そういう「生き方」をめざすお寺です。
現代の悩み多き時代にあって、人々とともに生きるお寺をめざして活動しています。

 

■第1話:2007年5月

 このあいだ、長年の虫歯が高じてとうとう気の進まない歯医者さんに行きました。何十年ぶりかの歯医者さんでした。かなり勇気が要りました。
 なぜこうなる前にさっささ歯医者さんに行かなかったか、と周りから言われますし、また私自身もなぜ痛いのを我慢して今まで歯医者さんに行かなかったのか、そう思いました。でも結果は恐ろしい虫歯。そしてとうとう抜歯。私は「自業自得(じごうじとく)」だと思っています。

自業自得   じごうじとく

自業自得  自分がした行いの報いは自分自身に返ってくる、という意味

 自業自得とは仏教のことばで、「自分がした行いの報いは自分自身に返ってくる」ということです。日本では特に「悪い行いをすれば悪いことが自分に返ってくる」という言い方で「自業自得」は広まっています。でも、仏教は「善因善果」「悪因悪果」で、行いの善い悪いはあまり問題にしません。

追善供養(ついぜんくよう)ってなあに?

 古来、人間は亡くなるとどこへ行くか、いろいろと考えました。生前の行いが善ければ善いところに生まれるし、逆に生前の行いが悪ければ悪いところに生まれる、というのはよく言われることです。いわゆる「自業自得」です。
 ここでちょっと考えてみましょう。誰か亡くなったとします。この人が生前に善いことをしていたのなら問題はないですね。善いところに生まれるのですから。しかし、あまり善いことをしていなかった人はどうなりますか。地獄に堕ちてしまうかもしれません。
 そこで、昔の人は「この人が地獄に堕ちないよう、この人に代わって残った私たちが善いことをしましょう、その結果、この人はいいところに生まれます」と信じて、法事をして読経や斉食(さいじき)(僧侶や参詣者に食事を提供すること)をしたり、お寺に寄進したりしました。このような、残った人が亡くなった人のかわりに善い行いをして善いところに生まれるようにすることを「追善」といいます。

ほんとうの「追善」は自分が「いのちの不思議」に目覚めること

 ここで申し上げたいのは、亡くなった人を追善供養することがすべてではない、ということです。ほんとうの「追善」とは「この人がいなかったらいまの私はいない」という真理、これを仏教では「法」といいますが、この「法」に目覚めさせていただくこと、これが「追善」であるわけです。
 つまり、亡くなった親の法事をするとき、「この親はひょっとしたらこの私を生むために世の中に出たもうたのではなかったか」と目覚めて手を合わせること、これが追善であります。いや、私のいのちの周りのものすべてが、この私一人を生かすために存在して下さっている、という「真理」つまり「法」に目覚め、手を合わせ、頭を下げる、これが「追善」ということです。
  お彼岸は「追善」の絶好の機会です。いまある「わたしのいのち」の不思議に手を合わせていくようにいたしましょう。ではまた。

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■第2話:2007年6月

 人は生きていると、多々思うようにならない事に出会いますし、失敗もしてしまいます。何故か、失敗ばかりが記憶に残り「自分の存在価値」に悩まれる方も多いようです。
 今回はそんな時に和尚が思い出す、明るく元気になっていただけれるお話を致します。

掃除をする、ということ

仏典から「シュリハンドク」のお話

仏典にシュリハンドクのお話、というのがあります。
シュリハンドクはおしゃかさまの教団にいたお坊さんでしたが、物覚えが悪く、周りからバカ扱いされていました。
そこで、前途を悲観して泣いていたシュリハンドクに、おしゃかさまがこうおっしゃったのです。
「何も泣くことはない。世の中には馬鹿でありながら、自分の愚かさに気づかない人がたくさんいる。お前は自分の愚かさを知っている。だから私は決してお前を見捨てたりはしない」と。
そして一本の箒(ほうき)を与え「ただただ《塵(ちり)を払(はら)え、埃(ほこり)を除(のぞ)け》といいながら周りを掃除しなさい」と命じられたのです。
シュリハンドクは教えられたことを忠実に実行し、ついに「何を塵(ちり)埃(ほこり)と認識するかは自分の心がそうさせる」という悟りに到達し、後におしゃかさまの大弟子である十六羅漢(じゅうろくらかん)の一人となった、というお話です。

「濁世(じょくせ)」を掃き清めるのが「掃除」

私たちの住む現実世界は「濁世 (じょくせ) 」と呼ばれるけがれた世界です。
自分の欲や瞋りを基準に世の中を動かそうとして、その結果、争いと苦しみが絶えない世界だからです。
そんな現実世界を少しでもお浄土の世界のように掃き清めていこう、という生活態度も、これまた「掃除」のあり方だと思います。
お寺では「一に掃除、二に勤行、三に学問」といって、何にもまして「掃除」が大事、というのです。
それはこの世を清めるのがお坊さんのいちばんの役目だからということかもしれませんね。と同時に「掃除」とはただひたすら精進(しょうじん)をする、その訓練でもあります。
今回は自戒を込めて書いてみました。
それではまた次回。

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■第3話:2007年7月

 この梅雨の時期、宗教詩人・坂村真民(さかむらしんみん)さんのお墓を尋ねて松山市・道後温泉の宝厳寺さん(長岡隆祥ご住職)へ出かけました。
 つかの間ですが、坂村真民さんの「ご生涯はどんなだったのだろうか」と考える、そんな時間をすごすことができました。

この世に生まれてきたのは何のため?

あなたにとってこの世の「ご用」ってなぁに

金子みすゞさんの詩に「木」というのがあります。
ちょっと声を出して読んでみてください。


    
お花が散って、実が熟れて、
その実が落ちて、葉が落ちて、
それから芽が出て 花が咲く。
そうして何べん まわったら、
この木はご用 すむかしら

どうでしたか。

 先般、わたしは金子みすゞさんを全国に広げておられる酒井大岳先生から、「みすゞさんはえらい。なぜなら、彼女は『ご用』ということばを知っているんですから。」と教えていただきました。
「えっ?『ご用』ってそんなに大変なことば?」と思いました。

お釈迦さまのご用は阿弥陀さまのお慈悲を私たちに示すこと

  しかし考えるとその通り、大変なことばだったんです。「ご用」「用事」とはこの世に生まれてきた自分の一ばんだいじな仕事のことです。
言い換えれば、この「ご用」をするために私たちはこの世に生まれてきた、といえるからです。
 仏教で言えばどうなるでしょうか。
おしゃかさまがこの世に出られた「ご用」は何ですか。
それは「阿弥陀さまのお慈悲をわたしたちに示すこと」、これがおしゃかさまの「ご用」だったのです。
 
 ひるがえって、それでは私の「ご用」「用事」は何でしょうか。
みなさん、考えてみて下さい。

身体が先にこの世へ出てきてしまったのである。
その用事は何であったのか。
いつの日か、思い当たることのある人は幸福である。
思い出せないまま僕はすごすごとあの世へ戻る。

 これは詩人・杉山平一さんの詩です。
 この世に生まれてきて、自分の「用事」を知った人はしあわせだ。それに気が付かないで、ただただ生きて死んでいく、というのはほんとうではない、というんですね。
 もういちど言います。私がこの世に生まれてきてする「ご用」「用事」とは何でしょうか。
では、また次回。

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■第4話:2007年8月

菩薩行を日常の生活目標に

 「菩薩(ぼさつ)さま」という言葉を、聞かれたことがあると思います。
この「菩薩」には「『最高の仏(ほとけ)さま』になるために一時も怠ることなく修行をするほとけさま」というの意味があります。
 菩薩さまの修行を、ふつう「菩薩行」と呼びます。
菩薩行を説く仏典の中には”おなかをすかしている虎に自分の身体をやる” ”自分が犠牲になって森の大火を消す”など、自らを省みず(かえりみず)相手のために尽くすエピソードが多く出てきます。
 そんなたいへんなことはできないにしても、私たちもこの菩薩さまの修行の精神を少しでも真似、その行いを少しでも習慣化し、日常を心ゆたかなものにできればと願っております。

具体的な菩薩行 「四摂事(ししょうじ)」

仏教では菩薩さまが仏さまになるための修行を、大きく四つあげています。「四摂事(ししょうじ)」といってつぎの通りです。

四摂事(四つの菩薩行)
布 施(ふ せ)  惜しみ心を退ける
愛 語(あいご)  やさしいことば。相手を認めることばを発する
利 行(りぎょう) 体、ことば、心の三種の行いで人を利する
同 事(どうじ)  相手と同じ立場、心の状態に近づこうとする

四つのうち、最初の3つまではその漢字を見てだいたい想像がつく菩薩行だと思います。
「布施」は物や心を差し上げることですが、形だけではなく心からしましょう、ということです。今の相手にとっていちばんいいものをあげるのが布施。ですからもらった方は「物を受くるに心をもってす」と戴くのです。
「愛語」は相手の心をていねいに気遣って発することばのことですね。べんちゃらは愛語ではありません。相手を思っていう厳しい叱咤のことばはあるときはその人にとっては愛語でしょう。
「利行」も相手のことを思ってする行動のことです。

「同事」  相手の気持ちに立つということ

第4番目の「同事」はちょっと漢字からではわかりにくいですね。
金子みすゞさんの詩に「さびしいとき」というのがあります。

わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
 
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
  
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
  
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。

この最後第4句目の「ほとけさまはさびしいの」が「同事」です。
さびしい相手に対し「代わってやりたいけれど代わることができません。だから私はあなたのそばにずうっといていっしょにさびしい思いを共有させて下さい」という、そういう相手の気持ちに立つ心をいいます。

菩薩行とは「思いやり」の生き方

こうして「菩薩行」、つまり「四摂事(ししょうじ)」を見てまいりますと、つまるところ、目の前の人に、全身全霊の「思いやり」をもって生活しましょう、ということになると思います。目の前の人といいましたが、それは花や木、石、水に対しても同じように「思いやり」を注いでいこう、という生き方ですね。これが、結局いちばんだいじな生き方になるのです。

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■第5話:2007年9月

さとり、真実のおしえは遠くにあるのではなくいつもわが身のそばにある

華厳経(けごんきょう)』というお経に次のようなお話があります。

 昔、スダナ(善財)という童子があり、この童子はいたるところで(生きる)道を問い、いたるところで(生きる)ことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた、というのです。
たとえば、こうです。

 『海で魚をとる漁師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞き、人の病を診る医師からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。また坐禅する出家を訪れては、その寂かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃[やいば]の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子供の群れにもまことの世界のあることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧をさとった。香をたく道にも仏の教えがあり、華を飾る道にもさとりのことばがあった。』 

 (仏教伝道協会「仏教聖典」より)
という具合です。
 つまりこの童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った、というのです。さとり、宇宙の真実は遠くにあるのではなく、いつもわが身のそばにある、ということですね。
※写真は善財童子像

朽ちた木から一本の若木が生えているのを見ていのちのありようを知ったスダナ

そして、この童子は、

『ある日、林の中で休んでいたときに、朽ちた木から一本の若木が生えているのを見ていのちの無常を教わった』

と示してあります。
 このところが心に残りますねぇ。「朽ちた木から一本の若木が生えた」というのは、逆に言えば、朽ちなかったら若木は生えなかった、ということでしょう。

私の命が終われば次の命が生まれる

 ここで私どもの寿命を思ってほしいのです。私どもは「命がもう少しで終わる」と嘆きます。しかし、私どもが朽ちて、いのちが無くならなけければ次のいのちは生まれてこない、と思い直してみてください。もう一押ししてみましょう。「私どものいのちがなくなることは次のいのちが生まれること」です、と。
 この『華厳経』では「いのちの無常を教わった」と書いてあります。「無常」というと「はかない命」と考えがちですが、そうではなく、もっと前向きに、この「無常」は「変化する命」、つまり、「つながる命」と受け止めていきましょう。
 もっといのちのつながりを信じて、広い心で明るく生きて行こうではありませんか。

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■第6話:2007年10月

四苦(しく)、四諦(したい)ということ

おしゃかさまは「四苦(しく)」ということをおっしゃっています。「生老病死」、つまり人間には「生苦」「老苦」「死苦」「死苦」の「四つの苦」が常にある、ということです。
なぜ、この「生老病死」を「苦」と説かれたのでしょうか。
おしゃかさまは同時に「四諦(したい)」ということも言っておられます。「四つの明らかな真理」と訳せばいいでしょうか。
この「四諦」は「苦集滅道(くじゅうめつどう)」という四文字の言い回しで表されています。
ところが、これを文章で説明しようとすると、四文字の順序が入れ替わっていきます。
では説明しますね。

「人間の死の原因は病気ではない、生まれてきたことが死の原因」

わたしどもはつねに「四苦」というものがつきまとっています、いくら厭(いと)い払いのけようとしてもこれを除去することは絶対にできない(「集(じゅう)」)のです。しかし、私どもは、その「苦」を正視しないで、何とかそこから目をそらせ、逃げようとします。その結果、ほんとうの(「苦(く)」)が私たちを覆うのです。
そこでです、ここからが大事なところなんですが、その「苦」を正視し、「苦」をあるがままのものと受け止めていく≪智恵≫こそが、私どもの歩むべき道である(「道(どう)」)。そして、そういう生活態度を続けていく努力こそが、ほんとうに≪苦≫をなくすことになる(「滅(めつ)」)、と教えて下さっています。
ハイ、以上が「四苦」と「四諦」のおはなしです。

京都に真宗大谷派の大学、大谷大学があります。
明治以降、仏教の近代化を進めた僧侶、学者、布教師がたくさん出たところですが、戦後にこの伝統を受け継いで大谷大学学長を勤められた曽我量深というお坊さんがおいでになりますが、この曽我先生は「人間の死の原因は病気ではない、生まれてきたことが死の原因です」とおっしゃっています。バカにされたようなことば、と受け取られる方もあるかもしれません。しかし、人間のありようは「生まれてきたこと自体が苦の始まり」なのです。あなたもわたしも、みんな、この世に生まれてきました。おなじ苦の原因を背負って生きているのです。私だけが病気で苦しいのではありません、私だけが年老いて身体が不自由になって苦しいのではありません。みんな生まれてきたこと自体が苦しみの始まりですから、みんな同じ苦しみを平等に持っているんです。
「苦」を正視する、ということはこういうことではありませんか。
今月もたのしく生きて行きましょう。合掌。

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■第7話:2007年11月

相手を信じること

毎日の人間関係をしっかり作るために、あるいは私自身が苦しまないためにも、「相手を信じなさい」とよく言われます。
しかし、相手を信じる、というのはなかなか難しいことです。
「信じなさい」とは「任せなさい」「待ちなさい」と同意語です。

どうすれば相手を信じることができるか、任せることができるか、というと、角度を変えて、「私が信じられている」「私に任されている」と思うことが大事です。

いま私のいのちがここにあるのはどうして

いま私のいのちがここにあるのはどうして?
生まれるとき、多分、いい子になりますように、と祈られて生まれてきたと思います。大きくなるにはまたいろんな力、縁をいただいていまの私があります。よくここまで来られたものだ、と言えます。
お釈迦さまは、「ひとの生をうくるはかたく 死すべきものの生命あるもありがたし」(法句経第182番)と言っておられます。
いま生まれてきたことも、今ここに私があるのにも、私一人でしたことではないのです。いろんな力が働いて今日まで来ました。
このいろんな力のことを私どもは「他力」と呼んでいます。「ほとけとしか言いようのないすべてのお力」ということです。仏教が進むにつれ、この「他力」をほとけさまの力」「阿弥陀さまのお力」と先人はみるようになりました。

そして、《いまある私はこの「他力」のおかげ》と気づいたときを「この私はほとけさまに信じられて今ここの在る」と言うのです。これが仏教の考え方です。

『私どもは 人を許さなければならない。なぜならばこの私がずうっと許されているから』

人様から信じられている私に気づきましょう

高い教育を受けたわけではありませんが、逆境を生き抜いてきたがために、人一倍ほとけさまのお慈悲に目覚め、念仏感謝の生活をする人のことを「妙(みょう)好(こう)人(にん)」といいます。
 鳥取県に源(げん)左(ざ)さん、という妙好人がありました。この人は念仏信心のとても深い人で周りの人からも信愛されていました。あるとき隣村の寺であの一灯園の西田天香先生のお説教があると聞いて遠い夜道を歩いていきました。やっとついたのですが、その日のお説教は今終わったところでした。「縁がなかったなぁ」と残念がって引返そうとすると、そのお寺のご住職が帰ろうとする源左さんを見つけて、西田先生に引き合わせました。
 源左さんは、西田先生の前に恐縮して座っていましたが、「先生様、遠い所から見えて、おらどもによいお話をなさったそうでさぞ肩がお凝りでしょうがやあ。打たせてつかんせ。」と言って後ろに回って肩を揉みはじめ、会話が始まりました。
源左さんが「今日のお話は、どがなお話で御座んしたな。」と訪ねると、西田先生は「お爺さん、年が寄ると気が短くなって、よく腹が立つようになるものだが、何でも堪忍して、こらえて暮らしなされや。そのことを話したんだが。」と答えました。すると、源左さん、「おらあは、人さんに堪忍して上げたことはないだけっど。おらの方が悪いで、人さんに堪忍してもらってばっかりおりますだがやあ。」と答えた、といいます。これには西田先生、「とても肩を揉んでもんでもらうようなお方ではありません」といって頭を下げた、といいます。
 源左さんの言葉は「私は悪人なのに、いつも人様から信じられているばかり。どうして、人様にあれこれ言えましょうか」ということです。
源左さんと西田先生とのお話から、「信じられて生きている強さ、明るさ、幸せ」が伝わってきます。

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■第8話:2007年12月

ここまでこられたのは誰のおかげか

今年も残すところあとわずか。
 年の終わりにあたって振り返ってみましょう、この一年を。
そこでキーワードはこれ。
「ここまでこられたのは誰のおかげか」

ここまでこられたのは自分の力ではない

この一年、いのちがあって
また新しい年に生きようとしています。
考えてみるとこの一年、
辛いこと、悲しいこと、イヤなこと
いっぱいありました。
でもそれらを経験することで
「私がここまでこられたのは自分の力ではない」
ということを知りました。

目の前の人に優しく接することができます

目の前の人に優しく接することができます

 こんな気持ちで年末を迎えて行きたいと思います。
 お釈迦さまもおっしゃっています。
 
「ひとの生をうくるは難(かた)く 死すべきものの生命(いのち)あるも有り難し」(法句経第182番)と。

しみじみと自分の「いのち」の不思議に手を合わせていきましょう。
きっと目の前の人に優しく接することができ、そして、幸せな気持ちになりますから。

年の終わりのキーワード。
「ここまでこられたのは誰のおかげか」

また新年に。
みなさまいいお年をお迎えください。合掌。
岸野亮淳拝

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■第9話:2008年1月

不思議のいのちを生きていることに気づきましょう

新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

新年に静かに考えますと、近年、とくにわが国では、人間や自然との交流がだんだん悪くなって、それがいろんな事件につながっている、と思います。
どうも私どもは、この私とそれ以外の人、いや、人だけでなく、花や鳥、水や光など、自然のいのちとは関係なく存在している、と思うようになり、人や自然とこの私がつながっている、という視座がなくなってきている、といえませんか。
「法句経(ほっくきょう)」の182番に
「ひとの生を受くるは難(かた)く 死すべきものの生命(いのち)あるも有難(ありがた)し」

というのがあります。
私という今あるいのちは計り知れない数の条件がやっと一つに合わさってこの世に生まれてきた、そしてなお、今も生きている。これは実はスゴイことだ、というメッセージです。
たとえば、炭酸ガスを吸ってくれる木があるからこそ、わたしどもは生きている、という事実をもっと深く見ないといけないと思います。そのとき、「そのとおり」といって、木を大事にし、炭酸ガス排出を抑えるためのエコ生活をする、ごみ減量に努める、というのが人間としての実践です。
加えて、その木や水に心を思い遣(や)って静かに手を合わせる、というのが人間として美しい行為になるのでありませんか。
人間は一人で生きている、という傲岸(ごうがん)さだけは早く取り除きたい、不思議のいのちをいま生きている、ということを思い実践していく、これが今年の私の願いです。そして、お寺の使命はここにある、と思っています。
おひとりでも多くの檀信徒の方、地域の方々と手を携えて前進したいと思っています。どうぞ、本年もよろしくお願い申し上げます。
合掌九拝。

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■第10話:2008年2月

お釈迦さまの最期の教え 自らを灯明とし、 法をよりどころとすべし

一生を布教伝道に捧げられたお釈迦さまは、伝道の旅の途中、80歳でお亡くなりになります。
亡くなられるまでずうっと身辺のお世話をしていたお弟子のアーナンダは最後の説法をお釈迦さまにお願いしました。そのときお答えになった最期のお説教が、有名な「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」の教えです。

お釈迦さまの最期の言葉

お釈迦さまの最期の言葉はつぎのとおりです。

『アーナンダよ、修行僧らはわたしに何の法話を期待するのか。わたしはどんな階層の人にも、いかなる人であろうとも内外の区別なしに法を説いた。わたしはこの人には隠し、あの人には話そう、などという話し方は一切しなかった。そして、他人を導いたり、あるいは導かれる、という意識はなく、真実なる法のみを説いてきた。それ故に、アーナンダよ、この世で自らを灯明とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないようにせよ。』

今をちゃんとしていれば、よい過去になり、よい未来になる

お釈迦さまのこの最後の言葉は 「自灯明・自帰依、法灯明・法帰依」という言葉で伝わっています。「調(ととの)えられた自己」を追求しなさい、ということです。まわりの人の言動に振り回され、真実が見えなくなることを厳しく諫めたお言葉、といえます。
「調えられた自己」とはどんなのでしようか。それは、たとえば、言葉で考えますと、「ウソを言わない」「二枚舌を使わない」「おべんちゃらを言わない」「悪口を言わない」「人を傷つける言葉を言わない」「人によって使い分けた話し方をしない」、こんな話し方に留意して生きる自分をいいます。

「調えられた自己」は自分のまわりを、また自分の過去や未来をも清らかにします。お釈迦さまは「過去を悔いるな、未来を思いわずらうな、今をきよらかに生きよ」とおっしゃっています。
俳優の小沢昭一さんは「今をちゃんとしていれば、よい過去になり、よい未来になる」と言っておられますが、これとあい通じますね。
それではまた。
合掌。岸野亮淳

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■第11話:2008年3月

同事(どうじ)ということ

仏教には「四摂事(ししょうじ)」ということばがあります。
難しく申しますと、菩薩(仏さまになろうとしてその目標に向かって修行する人)が人々を救おう、として行う四つの事柄、ということです。もう少し平たくいえば、その菩薩行に倣(なら)って、私どもが生きていく上での生活目標です。
この「四摂事(ししょうじ)」、順番に紹介しますと、


一、 「布施摂(ふせしょう)」
相手に財や法を施すこと
二、 「愛語摂(あいごしょう)」
相手にやさしいことばで話すこと
三、 「利行摂(りぎょうしょう)」
相手の利益になるようにすること
四、 「同事摂(どうじしょう)」
相手の中に入り、相手の苦楽をともにすること
です。

最後の「同事」というのはチョット聞きなれないかもしれませんが、とても大事なことで現代社会にあっていちばんかけていることではないか、と思います。
「同事」の反対は「対治(たいじ)」です。あるお医者さんがこのことばに感銘を受けて、ご自身の医学での立場でこの「同事」を説明しておられました。その先生によりますと、
子どもが熱を出した、アメリカ人なら、その子を裸にして寒い外に出す。これが「対治」。ところが日本人は熱を出した子どもを暖める、これが「同事」です。
たとえば、末期の小児ガンの子がいるとすれば、「がんばりなさい、あきらめるのはダメよ」と施療するのが「対治」、そうではなく、「よくがんばったね、もういいよ」と相手の苦しみのなかに自分を入れていく、この子にとっては自分の苦しみをわかってくれる人がいる、というのが何よりもの苦しみの和らぎになります、そのことが「同事」です。と。

相手の中に入り、相手の苦楽をともにすること

今般、千葉県の野崎沖で、漁船群に自衛隊のイージス艦「あたご」が突っ込んでいき、そのうちの一艘に衝突、漁師の親子が行方不明になりました。何とも痛ましい事故です。地元の方のお話ではなくなった息子さんはとても親思いの優しい人だったそうです。
この事件で、防衛大臣、自衛隊の体質、自衛艦トップの姿勢が厳しく問われていますが当然です。
そんななか、毎日の新聞記事の中に、20年前の7月、横須賀沖で自衛艦「なだしお」が大型釣り船「第一富士丸」に衝突して30人が亡くなった事故がありましたが、その遺族のお話が紹介されていました。
次男を失った70歳代のお父さんのお話で、ご自分の悲痛な過去をよみがえらせながら、「私は二日間探しても息子が見つからなかったときは絶望感でいっぱいでした。今度の千葉県沖の事故は人ごとではありません。飛んでいってご遺族に寄り添ってあげたい気持ちです」と話しておられました。
この「寄り添ってあげたい気持ち」ということばのなんと重いことか、言う方も大変でしょうが、このようにご遺族のことを思ってくださる方がいる、ということが伝わりますように、と読ませてもらいました。
さきほどから申しております「同事」ということ、つまり、相手の中に入り、相手の苦楽をともにする、ということ、とても尊いことです。
合掌九拝

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■第12話:2008年4月

自分以外のものの力によってこの私は「今」「ここに」ある

金子みすヾさんの詩に「はちと神さま」というのがあります。
紹介してみます。

はちはお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土べいのなかに、
土べいは町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
そうして、そうして、
神さまは、小ちゃなはちのなかに。


存在するものはみんな、繋がって存在している、という詩ですね。それでいて、どんなものにも仏さまの魂が宿っている、というんですよ。今いる私もそうです。ここに神様・仏さまが宿ってくださっている、こんな小さな私の中に。
私どもは毎日しんどい生活を送っています。しかし、たった独りで生きているのではありません。みんな繋がって生きているんです。苦しくなると了見が狭くなって「一人で生きている、どんなになってもかまわない」なんて自暴自棄になってしまいがちですが、自分のありようは、みんなのいのちの中にあるんです。こんな私に仏さまが宿ってくださっている、といただくんです。
こう見ていきますと、まわりのものはみんな喜べるものに変化していくのですね。これが、分別を超えた者がいただく「極楽浄土」なんですね。
極楽に生まれるのにはどうするか、『阿弥陀経』には「少なき善根を持っては生まれることは出来ない」と示してあります。つまり、これをやれば極楽に生まれる、これをしないから生まれられない、なんて小さなものではない。そんな比べる心、分別の心を捨てて、あなたはあなたそのままで極楽のお浄土に生まれることができる、そう戴くことがいちばん、とおっしゃってくださっているのです。
法然上人はそういう「阿弥陀経」のことをとても大事にお話をしておられるのです。

阿弥陀経』というお経は分別を超えた世界を示してある

『阿弥陀経』というお経があります。
わたしたちが住むこの娑婆世界が「極楽」である、という確認のお経です。『阿弥陀経』のみ教えでは、この世で見るもの、聞くもの、みんな仏さまのご本願の現れでないものはない、というみ教えです。
私どものまわりの樹、水、建物、地面、花、鳥、空気、風、みんな仏さまのご本願でないものはない、仏さまの願いでないものはないのですね。どういうことかと申しますと、私たちは鳥の声を聞くときは「比べる心・分別の心」で聞いています。あの鳥の声はいい、とか、悪いとか。花に対してもそうです。あの花は美しいが、こちらの花はイマイチだ、とか。そういう分別のこころで私どもはまわりのものを見ます。
ところが、『阿弥陀経』にありますが、極楽の世界の花びらは、形よい、湿り加減、重さ、香り、色、どれもすばらしい。この花びらがはらはらといつも降っているんです。この花びらに接すると、自分の所有物にしないで、人様に差し上げよう、という気持ちが自然に湧いて出てくる。実際、極楽に生まれた人は、朝にはこの花びらを集めて、いろんな仏さまや私どもに「散華」といいますが、花びらを撒いてくださっているのです。このきよらかな心のあり方こそが私ども人の生き方なのです。
花はこの世にもあります。花だけではありません、この世には、樹、鳥、そして人も何もかもいっぱいあります。ところが、それらを「良い」「悪い」という分別を用いて私どもは見てしまいます。
ここが肝心なのですが、分別、つまり比べて生きていると、これ何もかもが争いの基になるんですね。そうではなく、分別を超えてみてみると、どの花も、どの樹も、どの鳥もすばらしく、すべてが喜べるものとなるのです。鳥が違う声で鳴いたとしても、それはとうとい仏さまが教えを説いてくださっているお声に聞こえてくるのです。
喜んで生きていく努力をすれば、おのずと人は寄って来ます。反対に辛い、苦しい、悲しい、とばかりいっていますと、人は離れていってしまい、最後は孤独になってしまいます。
分別を超えた生き方が幸せをもたらす、ということです。ではまた。

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■第13話:2008年5月

自分に忠実でない生き方は、みずから苦しい生活を招く

お釈迦さまは「五戒」というものを示しておられます。
みなさまご存知のとおりの「殺してはならない」「盗んではならない」「邪(よこしま)な男女関係を持ってはならない」「ウソをついてはならない」「酒を飲んではならない」という五つの守りごとです。
これは道徳的に「~してはならない」というのではなく、私どもが「人を殺したり」「人のものを盗んだり」「邪(よこしま)な男女関係を持ったり」「ウソをついたり」「酒を飲んだり」することは、そのまま人を傷つけるだけでなく、自分をも苦しみの中に陥(おと)しこんでしまう、ということだからです。

「殺す」ということですが、戦場で人を殺した経験のある人が後で苦しむ、といことはよく言われます。「ウソ」もそうです。ウソは自分を守るためについ出てしまうことなのですが、ウソをついてしまったばかりに、毎日が苦しくなる、という経験は誰に出もあるでしょう。
「五戒」を生きる、ということはほんとうの自分に忠実に生きましょう、ということだと思います。逆に自分に忠実でない生き方は、そこから来る苦しみの中で生活するわけですから、みずからが苦しい泥沼の生活をすることになります。

四苦(しく)を生きる私たち

また、お釈迦さまは「四苦」というものを示しておられます。これもご存知のとおり「生・老・病・死」の四つの苦しみです。
「生まれること」「老いること」「病気になること」「死ぬこと」、これがどうして苦しみなのでしょうか。どうして「四苦」といわれるのでしょうか。
それは、「生まれること」「老いること」「病気になること」「死ぬこと」は必ずやってくることなのに、それから逃れよう、とするから、それが苦しみとなるのです。「死なないでいよう」と生への執着はややもすると自分に忠実な生き方をさせなくなるものです。
ここが大事ですね。

良寛さんの達観

良寛さんは、地震の被災者への手紙の中で「災難に逢(あ)う時節には災難に逢うがよくそうろう、死ぬ時節には死ぬがよくそうろう、これはこれ、災難をのがるる妙法(みょうほう)にてそうろう」ということをおっしゃっています。
誤解を招きそうな文章ですが、災難に逢うこの身なのに災難に逢わないようにあれこれ考えて苦しむのだ、死ぬべきいのちなのに死なないでいよう、とあがきもがいて苦しむのだ、そのまま災難に逢い、死んでいく、これはもともとじぶんではどうしようもないことで、すべてを天に任せる、これが苦しまない手である」とおっしゃっています。

「がん」になったらどうしますか

私どももいま申しましたように、年をとって病気で死んでいかねばなりません。とくにガンなどになった人は毎日をどのように生きていくべきなんでしょうか。
良寛さんのように「ガンになるときはガンになるがよろしい」とはなかなか言えませんね。
先日、朝日新聞で細井順さん(56)というお医者さんの記事を読みました。細井さんは滋賀県のヴォーリス記念病院のホスピス長で、3年前ご自身が腎臓がんの手術を受けました。
細井さんは、がん患者としての体験を、医師と患者との関係を見つめ直す機会になった、そういうお話でした。
その中で細井先生は「自分は医者の時代、《病気》だけを診ていたのだろう。自分の役割は患者の側にいてつらさを分かち合うことと悟ったいま、《人》を診ている実感があります。」とおっしゃっています。そしてこう続けれるのです。
「たとえるなら、外科医は100㌔の重さのがんをメスで削り込む。ホスピスでは医師、看護師、スタッフが一人1㌔ずつ、背負って軽くするんです。」 と。

人は「病」からのがれることはできませんが、その「病」を一人で抱えていかねばならないことが苦しみの原因なのですね。
このがんを自分一人で抱えるのではなく、隣近所の人たちが共有する、分け合う、そのがんにかかった人を認めて、苦しみを分かち合っていく、それもみんながそのような運命をたどるように出来ているんだから、あなただけじゃない、自分もがんになるんだから、と。
お釈迦さまが「病気になる身であることを知れ」と示されたのは、ただ達観せよ、ということではなく、「苦」はみんなが持っているものだから、みんなで認め合っていこうよ、ということだと思います。

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■第14話:2008年6月

人生に口ずさむことばを持て

「人生に口ずさむことばを持て」とは坂村真民さんのことばです。
わずかなことばがが、くじけそうな私を立ち直らせたり、短い詩が勇気を与えたり、生きる力になったりするのはそれを繰り返して口ずさむからだと思います。
お釈迦さまは死ぬまで「自己を見つめよ」とおっしゃいました。
私にとってはこの「自己を見つめよ」はまいにち口ずさむことばのひとつです。

自己を見つめていくと「自分は独りではない」ということがわかる、これがうれしいのです。生きる力になるのですね。

自己を見つめると自分は独りではない、ということがわかる

月参りをしているお家に独身の男性がおられます。親子三人で仲むつまじく暮らしておられましたが、父親が亡くなり、母子二人となりました。この男性、仕事熱心ですが、父親を送った後、徐々に鬱状態になりとうとう仕事を休むことになりました。仕事を休むとそれがまた心のプレッシャーになり、なかなか病状が改善されません。
そんななか、大峰山に登ったそうです。「独りで登って頂上近くの大峰山寺を参って降りてきたときはそれはそれは気持ちがすうっとした」と語ってくれました。
そのとき、わたしはその男性に「大峰山の空気、光、風が、あなたを許してくれたんですよ」と言いました。
霊峰に登って思いっきり深呼吸をする、なんべんもなんべんも霊気を吸っているうちに、自分が見えてくる、大自然・大宇宙に包まれている在る自分が見えてくる。それがすうっとした気持ちになった、自分はゆるされて在る、独りぼっちではない、そう説明したのです。

しっかり自分を見つめていくと 「こんな自分なのに、この私はまちがいなく宇宙のひとつの価値あるもの、として見えてくる」これをお釈迦さまはおっしゃりたかったんだと思います。

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■第15話:2008年7月

農夫は大地を耕し、私は人間の心を耕す

お釈迦さまが修行・伝道の旅をしておられるときのお話としてこんな経があります。

あるとき、お釈迦さまは、田仕事をしている農民たちの前に立って托鉢をされました。
すると、農夫のひとりが、「あなたはいつも説教をしたり、乞食をして、ぶらぶらしているだけだ。私たちは田を耕し、種子(たね)を蒔(ま)いて食物を得ている。あなたもそのようにすればどうか。」と言いました。
それを聞いたお釈迦さまは「わたしもまた田を耕し、種子をおろし、そのできた食物を戴いている」とお応えになりました。するとその農夫は、「へぇ、あなたのそんな姿を見たことがない。どんな鋤(すき)があるのか。牛はいるのか、どのような種子(たね)なのか」とたずねました。
そこでお釈迦さまは、
「人間が耕すものは田畑だけではない。人間自身を耕さねばならない。私はその人間を耕している。鋤(すき)は智恵であり、軛(くびき)をかけた牛は努力と熟慮であり、種子(たね)は信である。このように耕していけば、あらゆる苦しみから脱れる不死の実りをもたらす。」
とおっしゃいました。

 このやりとりは有名で、よく引用されます。「人は大地を耕すだけではなく人間の心を耕さなければならない」ということですね。
人間の心を智恵という鋤(すき)で耕し、信という種子(たね)をまき、精進(しょうじん)という肥料を施していけば、あらゆる苦しみから脱れることのできる不死の実を作る、つまり、心の安心を得ることができる、のです。

「聞く」ことができない人は
あの牛のようにメタボになってただ老いるだけ

いっぽう、こんなお経もあります。
聞くこと 少なき人は かの犁(すき)をひく 牡牛のごとく ただ老ゆるなり
その肉は肥ゆれども その智慧は 増すことなからん 
-法句経(ほっくきょう)第152番 友松圓諦師訳-

「聞く」ということは、よき人の言葉を通して、真理にふれることです。よき人とはお釈迦さまのことです。
「メタボリック(代謝異常)症候群」というのがあります。生活習慣病の中でも肥満、高血糖、高中性脂肪血症、低HDLコレステロール血症、高血圧のうち3つが重なれば「メタボリック症候群」と呼ばれ、いまでは肥満の代名詞になっています。
「聞く」ことができない人、真理にふれることができない人は、あの牛のようにメタボになって、智恵はそなわらない、というのです。

真理を知って喜びの生活をすると体はメタボにならない

よき人・お釈迦さまは
「人は単に生きているのではない、この宇宙の真理の中にいろんな縁が集まって、かけがえのないいのちをこの私が生きているのだ」
とおっしゃっています。かけがえのないこの私がこの宇宙にひとりある、ということを知り、それを喜んで生きていく、これができれば、今日のわたしの生き方は変わってきます。つまり喜びの生き方に変わります。
そして、喜びを知ると、自分の歩むべき道がわかります。人を大切にし、人と自分との関係をコントロールし、相手を傷つけない生き方をしようとします。
お釈迦さまは、
「心を耕し、真理にふれることができると、その結果、身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して、過食しない。真実をまもることを毎日の勤めとして生きていく」
ともおっしゃっています。

真理を「聞いて」、喜びを知る人は、実際の日常でも生活がきちんとでき、身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して、過食しないんですね。だからメタボにはならない、というわけです。

 

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